作者は此の場合にも、決して詠嘆もしなければ嘆息もしない。淡々とした「情緒的寫實主義」を亂される事なく進むのである。
前にも云つた通り、久保田君は、自分では寫實主義の作家を以て任じて居る。しかし生來の詩人的氣禀は、無差別の寫實を許さない。常にその作品が淡い愁にみたされてゐる通り、愁の陰影の無い世想は、久保田君にとつては藝術にならないのである。鈴むらさんが、先代丁字屋傳右衞門からうけ繼いだ店を、その儘持ち堪へてときめいてゐたら、彼は久保田君の心に觸れて詩になる身の上ではなかつたであらう。せん枝の目が惡くならなかつたら、彼も亦作者の顧みるところとならなかつたかもしれない。鈴むらさんの飼つてゐる犬は、都合よく老犬だつた。これが又よく吠えつく若い犬だつたら、詩人は遂に手を出す事はしなかつたらう。
かういふ風に自分の持味の靜寂を傷つけない爲めに專心な作者は、恐らくは無意識で、自然描寫に於ても、閑靜な、色彩の暗い冬景色を選んでゐる。俳句から來た影響もあらうが、それは殊に雨か雪か曇日に限られてゐる。
「末枯」は、
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ある夕がたから降り出した雨が、あくる日になつても、そのあくる
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