外面的に變化の多い幾年と共に、無智で氣短で、その癖始終果敢なく遣瀬ながつてゐる心持を、非の打ちどころの無い巧妙《うま》さで描いて居る。當今流行の新技巧派などと呼ばれて居る作家等が、無駄に冗長なる心理解剖の遊戲に有頂天になつて、落語家《はなしか》でも、幇間《たいこもち》でも、田舍藝者でも、不良少年でも、殿樣でも、何れも小説家のやうにもつともらしく、理窟つぽい心理的開展を示して、くだくだしくこだはらせなくては承知しない馬鹿々々しい素人脅しとは品《しな》が違ふ。「末枯」のうまみのわからない人間が多いならば、それこそ「世の中が惡くなつた」のである。
 扇朝の身の上話の終に、作者はかう説明してゐる。
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それから十年。――はじめのうちは、柳朝うつしの人情噺のたんねんなところが、評判にもなつたが、年々に後から後からと、若い、元氣のいい連中は出て來る。――いくら負けない氣でも「時代」のかはつてくることは何うにもならなかつた。
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 作者は、作者が常にはかながる「時代の推移」の怖ろしさに心を傷めると同時に、その犧牲者に對して同情を寄せてゐるのである。けれども、
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