の惡いせん枝は、秋の日の障子の中に靜に坐つてゐる。扇朝といふ男は義理知らずだから、ちかづけてはいけないと心配してゐるのだ。義理と人情の世界に住む東京の人は、屡々かういふ種類の心配をする。久保田君にも勿論此の傾向がある。さうしてその心配が、時にとつては、――せん枝にも、久保田君にも――一種の道樂に等しい心慰《なぐさめ》である。心配のなりゆきを考へる時、希望に似た胸のときめきがあるに違ひ無い。しかし此の種の心配性は、決してその心配に拘泥して、進んで解決を求める事は無い。ぼんやりと、友だちの無い寂しさに浸りながら、あの人は如何したらうと思つてゐるばかりで、こつちから相手を探し出して心配してやる執着は無い。それは心配する事の重大と否とには拘らず、何事によらず、うるさく拘泥する事はしないのである。心の底の底には、矢張、心配したつてどうにもならないと、寂しく思ひきめてゐるのだ。
何事にも動き易く、目的も無く浮動して、ふとした事にも身の振方を變へてしまふ心弱い人間を描いて、久保田君はその寂しい心の底の底迄徹してゐる。たとへば扇朝といふ落語家《はなしか》の半生の物語の如き、淡々とした敍事の中に、その
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