。結局世の中は自然と惡くなつてしまつたのだ。さうして又、その惡くなる事は不可抗の力なのである。久保田君の言葉をかりて云へば「世間の惡くなる事がどうにもならなかつた」のである。此の社會を形造るものは人間の力だといふ信念を持たないで、世の中が人間を壓服してゐる状態を、殆ど無條件で承認してゐるのである。
 かういふ社會觀を固く持して居る結果として、久保田君の描き出す世の中は、當然亡びゆく世の面影でなければならない。明日に連續する現在の世の中ではなくて、昨日に連續する現在なのである。從而《したがつて》久保田君の小説戲曲の中に現れる人物は、殆ど總て、今日の文明には何物をも貢獻しない人間ばかりだ。ただ單に亡び行く世の推移と共に押流されて行く人々である。てんでんに「世の中が惡くなつた」ことをこぼしながら、しかも此の惡くなつた世の中の茶飯事に終始して一生を送る人々である。或は極端にいふならば、その人々の存在は、單に移りゆく世の雰圍氣を成すものに過ぎない。此の世の中の推移を示す仕出《しだし》に過ぎない。
「末枯《うらがれ》」の中の人物、田所町の丁字屋《ちやうじや》の若旦那と生れながら、親讓の店も深川の寮
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