といふべきである。
 けれども久保田君にとつては――同君自身の幸福なる結婚は別として――世上の戀は遂に果敢ない夢に等しい。あらゆるものが、廣大な力を以て押迫る世の中の自然の推移に押流されて行くのだと、あきらめて居る久保田君の根本思想から見て、戀愛も亦一瞬間の覺め易い夢に過ぎない。それは必ず果敢なくさめて、殘るのは涙ぐましい過去の追慕か、或は寂しいあきらめに入る外はない。久保田君の作品の二三を讀めば、敏感なる讀者は直ぐに氣が付くに違ひ無い。戀の成就といふ事は、詩人久保田万太郎君にとつては、思ひも掛けない事である。戀は破れ、さうしてその夢は白々とさめなければならない。その白々とさめた後の生活に久保田君の詩は完全に育《はぐ》くまれる。
 詩人の常として、久保田君も亦常に夢を追ふ人である。同時に又執着に淡い、物わかりの早い東京の人の弱々しさから、その憧憬も夢想も見る間に果敢なく破れ去つてしまふ事をよく知つてゐる。結局は淡い夢の世界から、寂しいあきらめの世界へおちつく事になるのである。
 もとより久保田君にとつては、現在の世の中は結構なものとは考へられない。そんなら進んで蕪雜亂脈な社會の改造を叫ぶか、退いて一人密かに果敢ながつてゐるかといへば、久保田君は當然第二の道を歩む詩人である。泉鏡花先生のやうに、聲を張上げて威勢よく、現代の野暮と不粹を罵倒したり、永井荷風先生のやうに、徹底的に社會人事の虚僞と僞善を指摘する事は、久保田君には思ひも及ばない。同時に又、泉先生のやうに、過去の讚美に熱狂したり、永井先生のやうに、追憶囘顧の文字に詠嘆を縱《ほしいまゝ》にする程抒情的でも無い。まして況や新しき村に、不便を忍んで移住する程の實行力も芝居氣も無い。夢は夢で、憧憬の實現に努力するのは馬鹿々々しいのである。且つ又久保田君の思想の根柢には、世の中は日に日に惡くなるばかりで、人力を以てしては如何する事も出來ないといふ觀念が根強くわだかまつて居る。世の中の惡くなつた嘆きを身の周圍に持ちながら、決して今日の世の中を呪詛しもしなければ、それに對して反抗もしない。その惡くなつた原因を考へもしなければ、その原因を取除かうともしない。何故惡くなつたのか、何故惡いのかも考へない。あき足りないにはあき足りないが、さりとて、それが熱して不平不滿になるのでもない。ただ一人密かに心底から寂しくなつてしまふのである
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