。結局世の中は自然と惡くなつてしまつたのだ。さうして又、その惡くなる事は不可抗の力なのである。久保田君の言葉をかりて云へば「世間の惡くなる事がどうにもならなかつた」のである。此の社會を形造るものは人間の力だといふ信念を持たないで、世の中が人間を壓服してゐる状態を、殆ど無條件で承認してゐるのである。
 かういふ社會觀を固く持して居る結果として、久保田君の描き出す世の中は、當然亡びゆく世の面影でなければならない。明日に連續する現在の世の中ではなくて、昨日に連續する現在なのである。從而《したがつて》久保田君の小説戲曲の中に現れる人物は、殆ど總て、今日の文明には何物をも貢獻しない人間ばかりだ。ただ單に亡び行く世の推移と共に押流されて行く人々である。てんでんに「世の中が惡くなつた」ことをこぼしながら、しかも此の惡くなつた世の中の茶飯事に終始して一生を送る人々である。或は極端にいふならば、その人々の存在は、單に移りゆく世の雰圍氣を成すものに過ぎない。此の世の中の推移を示す仕出《しだし》に過ぎない。
「末枯《うらがれ》」の中の人物、田所町の丁字屋《ちやうじや》の若旦那と生れながら、親讓の店も深川の寮も、人手に渡さなければならなくなつた鈴むらさん――どういふわけでむら[#「むら」に傍点]と平假名で書かなければならないのかわからないが、甚しくかうした事に依怙地《いこぢ》な久保田君は、鈴村さんと書いたのでは、その人物を彷彿する事が出來ないのであらう――も、せん枝も、扇朝も、さては小よしも、死んだ柏枝も、さうして又老犬エスも、その他ちらちら舞臺に出て來る程の人のすべてが、何れも此の移りゆく世の犧牲者に外ならない。
 作者は鈴むらさんについてかう書いてゐる。
[#ここから2字下げ]
このごろの鈴むらさんの、退屈な、さうして、便りない、枯野のやうな生涯がいまさらのやうにせん枝の胸に浮んだ。――蔭で、種々、何のかのと勝手なことはいつても、考へると――すこしでも以前のことが考へられると、矢張、なほ、せん枝は、暗い、泪ぐましいやうな心もちになることが爲方がなかつた。
[#ここで字下げ終わり]
 茲に枯野のやうな生涯といはれて居るのは鈴むらさんの事だけれど、それは又鈴むらさんの事を胸に浮べてゐるせん枝の生涯にも、義理を知らない人間だといはれてゐる扇朝の生涯にも、あてはまる言葉である。否「戀の日」一卷
前へ 次へ
全13ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水上 滝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング