象の外形の美醜を強く感じる事は當然である。「新嘉坡の一夜」の主人公上月は、長い間の航海に、青空と青海に圍まれて塵埃を浴びず、帆綱に鳴る潮風と船|側《べり》を打つ波の音を聽く丈で、濁つた雜音には遠ざかつてゐた。親しい交りを續けて來た同船の客に置いて行かれて、孤獨の哀感に惱んでゐる時に、先づ耳を襲ふわめき聲、石炭の山の崩れる音に平靜を奪はれ、先づ目に觸れるむさくるしい苦力の群を見て、直ちに苛立たしい心から、それを嫌惡する念の起るのは當然である。若しその苦力の悲慘なる存在の原因を考へなければならないといふならば、作者は評者の「感覺の鈍さ」を輕蔑するより外に爲方が無い。「新嘉坡の一夜」は、社會問題を取扱つた論文では無い。「新嘉坡の一夜」は支那苦力の存在を問題として論じる傾向小説でもない。若し強ひて近時流行の人道がる傾向におもねつて、長々と苦力の状態を嘆き悲しむならば、それこそ「藝術的色調」の稀薄なものになるであらう。何れにしても本間氏の如く自分自身の感覺を通して感じる事の無いらしい人、自分自身の頭腦で考へる事の無いらしい人、換言すれば、無闇に他人の書いた本と、その時々の雜誌新聞がつくる流行を頼
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