の標準となつてゐる。作者の西洋崇拜もそこから來てゐる。作者の貴族趣味もそこから來てゐる。」と斷じ、更に進んで、西洋崇拜貴族趣味もいいけれど、それは「その人の熱度乃至信念を裏づけたものでなければならない」といつて、最後に「此の作者のやうに美醜判斷の標準を、對象の『外形』に置いてなされたものである時、私はそれらを排斥する。さういふ外形的美醜判斷を捨てて今少し事象の内部に透入することが必要ではないか。今少し『人類に對する親しい感情』を胸に抱いて一切の事象に對することが必要ではないか。私はこのことについて特にこの作者の反省を望む」と結んだ。
 自分は批評の怖ろしさ、批評家といふものの怖ろしさを痛感した。若しも自分が「新嘉坡の一夜」の作者でなく、且つその作品を讀んだ事が無くて、此の批評を見たらば、恐らく自分は本間氏のもつともらし書振りから判斷して、その批評の正確さを疑はなかつたであらう。僞物《にせもの》を憎む自分の性質は、かかる際どうしても本間氏に對して好感を持つ事が出來なかつた。
 自分は明かに「美醜の感覺」の鋭い人間に違ひ無い。且つ健全な二個の目を所有してゐる限り、その鋭い感覺は目に觸れる對
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