ゐる泉鏡花先生の「芍藥の歌」に感服した後で、「時事新報」の文藝欄に本間久雄氏の「新秋文壇の收穫」=技巧派と無技巧派の對比=といふ創作月評中に「新小説」九月號所載、拙作「新嘉坡《シンガポール》の一夜」に對する批評のあるのを見出した。
由來雜誌新聞を精讀しない自分は、雜誌新聞の編輯者の爲めに最も調法な人の一人らしい本間氏の筆に成る文章――評論批評紹介飜譯等――を餘り拜見した事が無く、たまに拜見したのがあつても、全く拜見しなかつたと同じやうに、まるつきり忘れてしまつたのである。何《いづ》れにしても同氏が現文壇の批評家として名のある人である事と、且つ非道《ひど》い誤譯をする人だといふ以外には殆ど何も知る處が無かつた。
非道い誤譯者だといふ事は、飜譯物の嫌ひな自分の發見ではなく、友達の一人に物好きがあつて、誤譯指摘の興味に沒頭してゐて、本間氏の飜譯は頗る蕪雜拙劣である上に間違ひだらけだといふ事を、御叮嚀にも原書と對照して、いやといふ程並べ立ててきかされた事があるのである。その時自分は、どうせ外國語を日本語に譯すのだから、ちつとは間違ひもあるだらうと、自分だつて飜譯をすれば間違ひだらけに違ひな
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