の標準となつてゐる。作者の西洋崇拜もそこから來てゐる。作者の貴族趣味もそこから來てゐる。」と斷じ、更に進んで、西洋崇拜貴族趣味もいいけれど、それは「その人の熱度乃至信念を裏づけたものでなければならない」といつて、最後に「此の作者のやうに美醜判斷の標準を、對象の『外形』に置いてなされたものである時、私はそれらを排斥する。さういふ外形的美醜判斷を捨てて今少し事象の内部に透入することが必要ではないか。今少し『人類に對する親しい感情』を胸に抱いて一切の事象に對することが必要ではないか。私はこのことについて特にこの作者の反省を望む」と結んだ。
自分は批評の怖ろしさ、批評家といふものの怖ろしさを痛感した。若しも自分が「新嘉坡の一夜」の作者でなく、且つその作品を讀んだ事が無くて、此の批評を見たらば、恐らく自分は本間氏のもつともらし書振りから判斷して、その批評の正確さを疑はなかつたであらう。僞物《にせもの》を憎む自分の性質は、かかる際どうしても本間氏に對して好感を持つ事が出來なかつた。
自分は明かに「美醜の感覺」の鋭い人間に違ひ無い。且つ健全な二個の目を所有してゐる限り、その鋭い感覺は目に觸れる對象の外形の美醜を強く感じる事は當然である。「新嘉坡の一夜」の主人公上月は、長い間の航海に、青空と青海に圍まれて塵埃を浴びず、帆綱に鳴る潮風と船|側《べり》を打つ波の音を聽く丈で、濁つた雜音には遠ざかつてゐた。親しい交りを續けて來た同船の客に置いて行かれて、孤獨の哀感に惱んでゐる時に、先づ耳を襲ふわめき聲、石炭の山の崩れる音に平靜を奪はれ、先づ目に觸れるむさくるしい苦力の群を見て、直ちに苛立たしい心から、それを嫌惡する念の起るのは當然である。若しその苦力の悲慘なる存在の原因を考へなければならないといふならば、作者は評者の「感覺の鈍さ」を輕蔑するより外に爲方が無い。「新嘉坡の一夜」は、社會問題を取扱つた論文では無い。「新嘉坡の一夜」は支那苦力の存在を問題として論じる傾向小説でもない。若し強ひて近時流行の人道がる傾向におもねつて、長々と苦力の状態を嘆き悲しむならば、それこそ「藝術的色調」の稀薄なものになるであらう。何れにしても本間氏の如く自分自身の感覺を通して感じる事の無いらしい人、自分自身の頭腦で考へる事の無いらしい人、換言すれば、無闇に他人の書いた本と、その時々の雜誌新聞がつくる流行を頼
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