技巧派無技巧派と同意味なのではないかとも思はれる。頭腦の惡い派に云はせると、頭腦のいい方は兎角靈魂の存在を忘れ勝でいけないのださうである。どんな靈魂を持つてゐるのかしらないが、本間氏は明かに頭腦の惡い派の重鎭なのであらうと、その時の自分の苛々した心持は、人の惡い愚劣な皮肉を弄んだ。
 別段勝れていい頭腦の所有者でなくても、誰が讀んでもわかる事だと思ふが、「新嘉坡の一夜」は滯歐中の女難の追懐に耽る事を主として描いた作品では無い。その形式から見れば、新嘉坡の一夜そのものを描いた作品である。詳しく言へば上月《かうづき》と呼ぶ旅客が其地の娼家で、想ひも掛けない女と、想ひも掛けない一夜を過した事を描き、主人公上月が、時につけ折にふれて、彼が荷へる運命の怖ろしさを次第に思ひ知つてゆく事を暗に示してゐる作品である。滯歐中の追懷は、彼の心に潛んで、その一生を暗くする女難の怖れを説明し、主人公をして單に紀行文の筆者、又は寫生的に描いた文章の主要人物よりも一歩進んだものとして浮ばせ度い爲めの背景なのである。
 但し作者は近頃の文壇の流行に背馳して誇大な發想や、活動寫眞的小細工にみちた脚色を厭ふ傾向から、無理にも主觀的に説明的に流れるのを避け、強ひて平調な、殆ど紀行文に近い形式を擇んだ。その爲めには、「第一毒茶を勸めたといふのは眞實《ほんと》だらうか嘘だらうか」と上月は疑つたが、結局わからなかつたままにして、作者は此の一大事にさへ説明を加へずに稿を終つた。それを知つてゐるのは女一人で、上月の心には、それが眞實か嘘かを思ひ迷ふ暗い疑念さへ殘ればいいのだと思つたのである。お芝居になり度くない爲めの用意に外ならない。
 若しも此の平調を心掛けた結果の作品が、單に平調である丈で、暗示に富んでゐないと云つて責めるのならば、作者は此點に於て我が力及ばずと自分自身嘆いて居るのであるから、謹んで評者の眼識の高いのに服したであらう。不幸にして本間氏は作品の骨子をさへ正しくは捉へてくれなかつた。しかも自分では滿足した態度で洒々《しやあ/\》として批評の筆を進めてゐる。
 本間氏は、上月が支那|苦力《くうりい》を見て「人類に對する親しい感情を起させるやうな人間には見えない」と感じたのをつかまへて「此作者は恐らく美醜の感覺の強い人であらう。しかしそれは決して常識の範圍を出でない。此作者には大部分、外形が美醜判斷
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