りにして生きてゐる傾向の人が考へてゐるやうに、生きた人間は單純なものではない。自然主義の流行する時は、人間を獸《けだもの》扱ひにしなくては淺薄だと考へ、人道主義の力説される時は、一切のものに對して無責任無反省に目をつぶつて愛を感じなければならないのだと、座右の銘にして忘れない種類の人間程馬鹿々々しいものはない。或作品に「人類に對する親しい感情」が滲み出して居るかどうかといふ事は、その作品の中に憎惡怨恨の言葉のありなしに關係はしないのである。生きた此の世の中では、相手の横面を張飛す事さへ「人類に對する親しい感情」を伴つて起る事もある。愛だ愛だと下宿の二階で叫んでゐるのは、それは單に根底の無い覺悟に過ぎない。自分の平調枯淡な作品の場合に引合ひに出しては相濟まない氣がするけれど、日本ではお手輕な愛のかたまりのやうに誤解されてしまつた大トルストイの作品中に、いかに憎惡の念の熾烈に現れてゐるかは頭腦《あたま》の惡い派にはわからないのであらうか。
 評者は又作者を目して「西洋崇拜であり、貴族趣味」だと呼んでゐるが、「新嘉坡の一夜」の何處から推斷して作者を西洋崇拜の貴族趣味だといふのであるか。自分は殘念ながら今日の日本人が歐米人に勝つてゐるものと自惚れて安んじてはゐられないが、さりとて外の今日の日本人、殊に文壇の人々に比べては、あまりに西洋崇拜の度の低過ぎる一人だとさへ考へてゐる。自分などから見ると、本間氏その他同傾向の人々、もつと明確に云へばヂヤアナリズム信奉者程盲目的の西洋崇拜者は無いやうに思はれる。取捨選擇も無く西洋人の所説を紹介し、西洋人の作品を誤譯する事など、自分などには、思ひも及ばない事である。新嘉坡の町を歩いてゐる上月が、汚ない町を過ぎた後で、大きな旅館の前に立つて、憧憬の念を抱きながら西洋を想ふのは、別れて來た土地に對する愛着から自然と起る感情以外の何ものでもない。さういふあたりまへの温情さへ感じ得ない程の木像的思索家に「人類に對する親しい感情」がほんとに起るとは想像されない。彼等は先づ西洋の本を捨てて――彼等自身の言葉を借りていへば――街に出づる必要がある。
 今日の文明の形成者として、東洋人よりも西洋人の方が偉かつた事は疑ひが無い。しかしそれは單に「外形の美醜の判斷」がもたらした結果では無い。その文明を生み出した彼等を尊敬するのである。甚だ面白くない例だが、之
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