分達丈は疑も無く生れながら惠まれた者であり、止る處を知らぬ力の進展を自己の内に認めるものだと世の中を憚らず公言したが、遠き將來はいざしらず、少くとも今日に於ては嘲笑の中に葬むられんとする状態である。
 さういふ中にあつて、その主義傾向の如何を問はず、ほんとに僅少の作家ばかりが永久性を持つて居るのであるが、些かの疑も無く第一に指を屈すべきは泉鏡花先生である。
 救ふ可《べか》らざる沒分曉漢《わからずや》は別として、多少なりとも文藝の作品に親しみを持つ人は、その主義や趣味の相違から慊《あきた》らず思ふ點はあるに違ひ無いが、何れにしても泉先生の作品が古典として殘ることを疑ふ者はあるまいと思ふ。かう云ふ自分自身さへ先生の作品に慊らぬ節が無いとは云へない。例之《たとへば》世間の誰も彼も口を揃へて讚美し、全體としての作品には感心しない人さへこればかりは激稱する絢爛を極めた先生の文章の如き、自分は稀なる名文だと思ふと同時に、時にふと天下の惡文では無いだらうかと疑ふ事がある。先生の作品の愛讀者の多くが隨喜する所謂江戸趣味も自分は眉をひそめ度い。
 それならば泉先生の藝術の偉大さは何處にあるかといへば、
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