屋に注文状を出したのは勿論である。
 今日は來るか明日は屆くかと、毎日「日本橋」を待暮したが、一週間たつても十日たつても屆かない。由來福島屋は上品なおかみさんと大樣《おほやう》な若旦那の經營する氣持のいい店ではあるが、勘定を取りに來ないのと、記帳落《つけおち》の多いのと、注文の品をなかなか持つて來ないので聞えてゐる。「日本橋」の發送も勿論惡氣は無いが等閑《なほざり》にされてゐたのに違ひ無い。
 その間に梶原君の町角の本屋に通ふ事は一日も止まなかつた。一刻も早く讀み度いと思ふ心がどうしても彼を落着かせなかつた。毎日毎日店頭に立ちながら、曾て買物をしない自分に向けられる小僧の視線を不愉快に思ひながら、幾度手に取上げて「日本橋」を開いて見たかわからない。
 或夕方、又行くのは羞しいなと心の中では思ひながら本屋を訪れたが、その日迄は二册並んでゐた「日本橋」がいつもの場所に一册しか見えなかつた。失敗《しま》つた。誰かに買はれたなと、自分の祕藏の物を奪はれたやうな嫉妬を感じた。けれどもまだ一册殘つてゐるのを少しばかりの慰めにして、彼は又それを手に取つて見たが、心なしか小村雪岱氏の纖細な筆で描かれた綺麗な表紙も何時《いつ》の間にか手擦れ垢じみて來たやうに思はれた。
「自分の手垢で汚したのかもしれないが、その時はなんだか他人《ひと》も自分のやうに『日本橋』に思ひをかけてゐるやうに思はれて爲方がなかつた。」
 と此話をした時に、梶原君は附加へて説明した。
 彼は毎日徒らに手に取上げては又もとの書棚にかへす「日本橋」に不思議な愛着を感じて來た。あてにならない福島屋の送本を待つてる間に、殘つた一册も賣れてしまつたらどんなに寂しいだらうと考へた。大連みたやうな下等極まるところにも我が泉先生の作品を讀む奴がゐるのだから油斷は出來ない。どうしてもこれは自分が買つてしまはうと思つた。本は必ず福島屋ときめてはゐるのだが、そんな事は云つてゐられない位殘りの一册は彼の心を離れなくなつてゐた。
 さうだ買はうと決心した時、梶原君は懷中殆んど無一文だつたなさけない事實を思ひ出した。
「どうしてあれ程貧乏だつたのか、兎に角五十錢もなかつた。」
 と羞しがりの梶原君は、今でも顏を赤くして云ふのである。
 幾度見直しても定價金一圓二十錢といふ奧附は變らなかつた。此時程無駄づかひを悔いた事はなかつた。勿論乏しい月
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