給ではあるが、貰つた其日に殆どすべて飛んでしまつた事を思ふと殘念で堪らなかつた。それからそれと自分の平生の生活から、大連なんかに來てゐる身の上迄考へながら、アカシヤの並木の下を彼は悄然として叔父の家に歸つた。
福島屋に宛ては早速催促状を出したが、町角の本屋へ通ふ事は矢張り止められなかつた。晝の間會社の事務室の机にむかつても、誰かが「日本橋」の殘りの一册を自分から奪つて行く不安が胸中を往來した。どうせ遲くとも福島屋から送つて來るには違ひないと考へても、いつたん執心を掛けた町角の本屋の「日本橋」を、自分の讀まないうちに先きに誰かに讀まれてしまふ事が面白くなかつた。
福島屋からの送本は何時來るだらう。一圓二十錢の金が欲しい、月給日が早く來てくれればいいといふ事を繰返し繰返し考へながら、毎日彼は町角の本屋に通つた。その道筋の川にかかつてゐる橋の名の日本橋といふのさへ自分を嘲笑する爲めに名づけられたもののやうに思はれた。
本屋の店頭に立つて、まだ殘りの一册が無事に書棚の上のがらくた本の間に積まれてゐるのを見て一先づ安心して家に引返へすのも、二週間過ぎ三週間過ぎ、たうとう一月《ひとつき》近くなつた或日、彼は漸く福島屋から送つて來た「日本橋」を受取つたが、それと同時に待焦れてゐた月給日も到來した。
幾枚かの札の入つてゐる一封を受取ると、梶原君は直ぐに町角の本屋に驅けつけて、此の幾日の間毎日毎日寂しい懷をなげきながら眺めてゐた「日本橋」を手に入れた。福島屋からの一册は現に手に持つてゐるのだけれど、あれ程迄に自分が思ひを寄せた一册を、何處の誰だかわかりもしない他人の手に委ねる事は情に於て忍びなかつたのださうである。
「その時の嬉しさつたらなかつた。」
と梶原君は目も鼻もなくなした嬉しさうな顏をして話を結んだ。
「笈摺草紙」を手に入れそこなつた自分の失敗談を冒頭《まくら》にふつて、梶原君が「日本橋」を手に入れた一事を購書美談として世の人に傳へようと思ふ。(大正七年七月七日)
[#地から1字上げ]――「三田文學」大正七年八月號
底本:「水上瀧太郎全集 九卷」岩波書店
1940(昭和15)年12月15日発行
入力:柳田節
校正:門田裕志
2005年1月17日作成
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