、何れは又後に至りて自ら堪へ難き迄厭はしくなるものなるべし。
「嵐」は一昨々年の夏鎌倉に在りし時、一夜俄に風荒れてすさまじく浪の高まりしが、海近き我が友の家の如きは深夜枕に浪をかぶりし程なりしかば、常より寢つき惡しき予の雨戸を搖る風の音、遠く砂濱を打つ濤聲《なみ》の騷がしさに、曉風の靜まる迄一睡もなし能はざりし其の夜わが腦裡に成りし一幕物なり。別段我が家の海嘯《つなみ》に襲はれし事あるにもあらず、その折家に在りしは予一人なれば登場の人物皆わが構へしところにして所謂もでるを有せざるなり。
「いたづら」に就きてはそのかみの事の思ひ出でられて懷しき心地す。わが幼かりし頃は未だ人々耶蘇教に對して故もなき偏見を抱きてありし時代なれば、予等幼き者はなほ不可思議なる邪宗なりと自ら思ひ居りしも無理ならず、その會堂に石つぶてする事は勇しき嬉しきいたづらなりき。
 或時近き家の子等と我が家近き蛇坂の上にたてる普連土《フレンド》女學校の寄宿舍の窓に予も誘はれてつぶてしに行きしが、我が家の隣なる寺の子の逃げ遲れて女教師らしき人に捕へられしを殘し、あわてふためきて走り歸りし予等皆其の子の身の上の氣づかはれて、或
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