描きたる話の筋道はわが脚色に過ぎず。初めその友の若くして頗る無邪氣なる道徳家なりし事にわが同情は催されしが、稿成りし時予に殘りしものはなすべからざる事を爲したる事を悔ゆる念のみなりき。
 予は自らも餘りに我儘にして人づき惡《あし》き事を知れど、不思議にもわが我儘を許して長く變らぬ僅少の親しき友を有せる事を思ふ毎に限り無く嬉しき心地して胸の躍るを覺ゆ。「ものの哀れ」の松波冬樹はわが中學時代の無二の親友なりき。彼は彼《か》の作中に描きし如く壹岐の島に生れたる少年にして、頗る氣性烈しく狷介の性は他の多くの少年の寧ろ憎むところなりしが、予にとりては又なく親しき友なりしかば、恰も物の哀れを知る頃のわれ等は共に好める詩歌を誦するにも感極まりて屡々泣きぬ。
 その後彼は二度目の落第に氣を腐らし朝鮮京城に在りし姉なる人を頼りて行きしが、韓《から》の風は寒かりけん、間も無く肺を病みて吐血し、日本に送り還されて暫時《しばらく》諸處の病院に在りし後明治三十九年十二月二十一日彼の最も嫌ひなりし大阪の地に死にぬ。
「賢さん」の一篇は亡き友田中憲氏と予との交友をありのままに記せり。予は何故か此の一篇を小説と呼ばるる事を忌々しく思ふ心止め難し。恐らくは小説なる二文字が嬉しからぬ聯想を予に與ふればならん。
 われ等この人と親しかりし者は皆憲ちやんと呼び馴れたり。憲ちやんは色白く唇|紅《あか》き美少年にして、予は曾てこの友の如く無邪氣に尊き子供心を長く失はざりし人を見たる事なく世にもめでたき人に思ひしが、明治四十五年の春慶應義塾理財科を卒業するに先だちて俄に病みてみまかりぬ。生前好んで尺八を弄びたるが、憲ちやん死去の事を聞きしその夜、我が家の裏手の竹藪をへだて、折柄寒き月明りに震へつつ、絶えせず消えずいとかすかに思ひも掛けぬ尺八の音の流るるを聞きて、われは我が心を失はんとしたり。
「途すがら」は五六年前九州に在る姉の許に赴きし時、人に誘はれて炭坑を見に行きし日の日記をもととして作りし純然たる小説なり。折しもその炭坑に火災ありて坑夫あまた地底に燒死したりし慘害の後なりしかば、臆病なる予の心は異常の恐怖に襲はれたりしは事實なれども、何ぞ予に尋ね行くべき美知代のあらんや、すべてはわが作りし物語のみ。その父の命によりて庭前に愛誦の書一切を燒き捨てたる少年俊雄をわれ自らなりと思ひし人ありしが誤れる事甚だし。さきにも云へる如くすべてに寛容なる我が父はわが文學を好む事にも何の干渉を加ふる事なく、我が筆執りて無益にも拙き小説書く事を知れど未だ曾て予をとがめし事無し、なんぞ予をして我が愛誦の書を燒かしむるが如き愚かしき事をし給はんや。
「ものの哀れ」の父と子の關係も亦わが空想の構へしものなる事を爲念《ねんのため》附記す。
「心づくし」には多くの事實と多くの空想とをまじへたり。これを明かに云へば前半に描きし事は大方據り處あれど後半殊に結末の數十行は單に都合よき結末を求めて我が綴りしものに過ぎず、予には彼の作中に見るが如き叔父も無く又曾て父母を憚りて我が筆を折らんとしたる事も無し。
「沈丁花」は三人の娘をかりて最も變化なき筈なる山の手の家の、なほかつ時勢の推移に連れて移り行く有樣を主として描かんとしたるが、力足らずして意にたがへるものとなり終れり。彼の作こそは悉くわが空想の産みし所にして、描きたる人々の性格餘りに變化無しとの評ありし時われ自《みづから》も亦頷きたり。
「噂」及び「夢がたり評議員會」はまことに噂と夢がたりに過ぎず、敢て説明を要せざるべし。
「友だち」及び「世の中」は近く予の試みし作なるが、何れは又後に至りて自ら堪へ難き迄厭はしくなるものなるべし。
「嵐」は一昨々年の夏鎌倉に在りし時、一夜俄に風荒れてすさまじく浪の高まりしが、海近き我が友の家の如きは深夜枕に浪をかぶりし程なりしかば、常より寢つき惡しき予の雨戸を搖る風の音、遠く砂濱を打つ濤聲《なみ》の騷がしさに、曉風の靜まる迄一睡もなし能はざりし其の夜わが腦裡に成りし一幕物なり。別段我が家の海嘯《つなみ》に襲はれし事あるにもあらず、その折家に在りしは予一人なれば登場の人物皆わが構へしところにして所謂もでるを有せざるなり。
「いたづら」に就きてはそのかみの事の思ひ出でられて懷しき心地す。わが幼かりし頃は未だ人々耶蘇教に對して故もなき偏見を抱きてありし時代なれば、予等幼き者はなほ不可思議なる邪宗なりと自ら思ひ居りしも無理ならず、その會堂に石つぶてする事は勇しき嬉しきいたづらなりき。
 或時近き家の子等と我が家近き蛇坂の上にたてる普連土《フレンド》女學校の寄宿舍の窓に予も誘はれてつぶてしに行きしが、我が家の隣なる寺の子の逃げ遲れて女教師らしき人に捕へられしを殘し、あわてふためきて走り歸りし予等皆其の子の身の上の氣づかはれて、或
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