して貯金をなすべきかを究むる事など未だ世の人の心に多く觸れざりしなるべし。家内《いへ》の者|集《つど》へる茶話の折など玄齋居士が「小説家」の筆廼舍《ふでのや》なまりと蓮牡丹菊にたとへられし三美人が明日の心にかかれるまま人々の口にのぼりて、なかには眉ひそめて物語の中の人の身の上を氣づかへるもありしなり。ちぬの浦浪六涙香小史が小説飜譯のたぐひも、屡々人々の手より手に渡りて讀まれたりし事を忘れず。
 やがて少年の日の若き心の喜びに、古き新しきのわかち無くさまざまの書讀み初めしより、何れは勝れたる人々の作の嬉しかりしが多かりし中にも、今は世になき人にては尾崎紅葉先生、齋藤緑雨先生、樋口一葉女史、稍々遲れては國木田獨歩先生の御作など殘りなく求め讀みしが、思ふにわれはただにその人々の作品の嬉しかりしのみならず、その人となりの更に一層なつかしかりしを否む事能はざるべし。殊に尾崎紅葉先生は二人となき勝れたる人格の所有者なりしならんと想ふだに心震ふばかりなり。
 今もなほしきりに筆執る人々につきては何となく憚からるる心強ければ、ただひそかに崇敬と感謝の念を捧ぐるに止めんと思へど、たゞ泉鏡花先生の御作に對する憧憬の、殆んど我が半生を切放して考ふる事能はざる程に思はるるまま、默してあらん事堪へ難き心地すれば些かは茲に記して自ら慰まんと思ふなり。

 泉鏡花先生は我が死ぬ日迄恐らくは變る事なく予に取りて懷しくありがたき御方ならん。初めて先生の御作の我が心に沁みて消えぬ思ひ出となりしは、其の頃「文藝倶樂部」に連載せられし「誓之卷」なりき。その卷を開く手も打震へつつ涙流して幾度は繰返しけん。遂には彼處此處《かしここゝ》暗《そら》んじたりしが、其後先生の御作にして我が目に觸れしもの一として讀み落したるものもなく、古きをもあさり求めしかば、我が友の一人はたはむれに我が先生の御作納め居る本箱を指して「鏡花文庫」と呼びたり。
 いづれ劣りはなきが中にも「照葉狂言」は予の最も好みたるものにして、又今も變らず好めるものなる事ついでなれば記しつ。われ世の中の如何に尊き人賢き人にも逢ひ見度き願ひなけれど、先生にばかりは一度御目にかかり、先生の御作によりてこの年月いかばかり心なぐさみしかを聞《きこ》えあぐる機會のあらば嬉しからんと十年《ととせ》に過ぎて思ひて變らず、未だ中學に通ひし頃なりしが「泉鏡花先生の御作に就きて」なる一文を草せんとて筆執りし事ありしも、遂に我がよくなし得ざる事なるを思ひて止みぬ。その後屡々同じ願ひの予を驅りし事あれども、われはわが不才を知れば幾度も執りし筆を皆折りて捨てしのみ。

 我が處女作は明治四十四年三月相州湯河原の山懷《やまふところ》の流に近き宿の古く汚れたる机の上に成りぬ。その後數ふれば早く既に十數篇の小説戲曲を發表したるが、何れも筆執りてありし間の心に似ず印刷成りてこれを手にする時、餘りの拙なさになさけなくなるをおきまりとしたり。
 さればそれらの作品を一册にまとめて世に出す時些かふてくされたる氣持なきを得ずして、心の底に湧き起る不滿と失望をやけと冷笑を以てなぐさめんと努むるに忙しかりき。かかる事云ふを人のとがむるあらば、われ又更に冷笑を以て自らをなぐさめん。
 わが最も心苦しきは文藝の作品と新聞の三面記事との相違を知らざる人にわが作の讀まるる事なり。曾て或る愚なる新聞記者はわが作品の二三をつなぎ合せて我が半生の詐《いつは》りなき告白なりと思ひ、それによりて出たらめなる一文を草し麗々しくも三日に亙りて之を紙上に連載したり。
 かかる事何故に心苦しきや敢て言ふの要なき事なれど、茲にわが作品に就きて少しく自註を加へんと欲す。

 生れしは麻布の高臺なりしが、幼くして我が家芝にうつりたれば、其邊に住みし人など多く我が記憶に殘るものなきはもとよりなれど、或日或時わが目に映じたる街の樣の不思議にも明かに思ひ浮べ得るまま、處女作「山の手の子」の舞臺を其處にとりたるなり。唐物屋の頭禿げし亭主の顏今も忘れず、繪草紙賣る店に屡々通ひしも事實なれど、その他の人はお鶴はもとより煙草屋の姉弟《きやうだい》も皆我がほしいままに描き出せる架空の人物に過ぎざるなり。
「ぼたん」の中の人々は今も世にある人にして、彼の一篇のみはまさしく我が幼き日及び我が見たる人の身の上を筆に上《のぼ》せたるものなるが、我が性質として後に至りよしなき事をしたりと思ふ心強く予を責むるものありき。此の一事を以て予は彼の作品を嫌ふ。
「うすごほり」に就きても亦些かはかかる念ひあれど、お澄さんは彼の小説に書きし如き身の上の人にあらざりし事を記さん。
「その春の頃」は我が作中就中拙きものなるが、彼の作は我が親しき友の身の上にありし事をその友の口より聞きし時話に醉ひて直に筆執りしものなれども、もとより
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水上 滝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング