貝殼追放
「その春の頃」の序
水上瀧太郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)父母《ちゝはゝ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)皆|賢《かしこ》く

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]
−−

 自分の第二小説集「その春の頃」は、大正元年の秋自分が渡米した後で、第一集「處女作」に續いて突然出版の運びになつた。第二集の爲めにと思つて書いた序文は間に合はなかつたので、その儘机の抽出にしまはれてしまつた。此頃、夥しい書きかけの原稿の整理をしてゐると、その序文が皺くちやになつて出て來た。讀みかへして見ると或時代の自分の心持が蘇生して來て、裂いて捨てるのは殘り惜しく思はれるので、清書して世に出す事にした。もとより今の自分から考へると、削り度い箇所も多いのであるが、全體に漲る若々しい詠嘆的なところがわれながら懷しいので、わざと一字の増減もしない事にきめてしまつた。(大正七年六月十八日)

 わが父母《ちゝはゝ》人にすぐれて行ひ正しくおはせば、我が家は世に勝れて良き家なる事をわれ曾て些かも疑ひし事なし。
 わが家は富み、わが父母限り無くわれをいつくしみ給へば、われ未だ曾て食ふべき物、住むべき家、着るべき衣服の乏しさを思ひし事なし。
 されど何故《なにゆゑ》か予は物心覺えし日より、わが我儘なる心に常に何をか求め憧れつつ遣瀬なき念《おも》ひ束の間も忘るることなく、曉は曉の、夕暮は夕暮の悲しさに堪へず、此の念ひ消えぬ苦しさに惱みては、遂に安價なる冷笑と卑怯なる皮肉のかげに、ふてくされたる安住を見出さんとするに至りしが、しかも我が心はなほ其處に安らかに眠る事能はざりき。
 わが心、何を求め何に憧るるや、われ自《みづか》らもわき難きを、われ自らにあらぬ人の父母《ちゝはゝ》なりとていかで知り得ん。我が父母はただ只管に限り無くわれを愛《め》でいつくしみ給ひき。
 われ常にこれを想ふ毎に、父母の慈愛の深ければ深き程、解き難き心の苦しさに頭《かしら》痛みて堪へ難き心地す。

 われは我が父を父とし母を母として生れし事を何人に對しても憚る事なく誇らんとす。
 我が父はわれ等はらからに對して曾て一度《ひとたび》も怒り罵りし事なく、すべてをわれ等が思ひのままに任されたれば、われ等父をおそるる心を知らで過ぎにき。これわが殊にありがたく思へるところなり。
 わがはらからは皆|賢《かしこ》くおとなしかりしにわれ一人|父母《ちゝはゝ》の良き教にそむく事多かりしが、しかも我が父はわが罪を一度も責め給ひし事なし。われはわが無邪氣にしていたづらなりし少年の日に、疳のたかぶりては父母にさへ屡々|拳《こぶし》を振り上げて立ちむかひし事を、深き悔恨と共に忘るる事能はず。さる折にもわが父は靜かに我が亂暴を看《み》守りて居給ひしのみ、彼の世の中の父親がその子の惡行を矯めんとてうち打擲するが如き事は、予の曾て我が家に見たる事なきところなり。
 我が母の誰人に對しても優しくおもひやり深き事は、我が母を知る人の誰しもいなまぬところなる事をわれ亦信じて疑はず。
 おもひやり深き母は自らの事と他人の事とのわかちなく、世の事人の身の上の事に就きて、共に喜び共に憂ひ共になげき共に悲しみ給ひき。われは我が母の涙を見たる事あれども怒れる聲を聞きし事無し。

 幼き日我が最も嬉しかりしは、今は世になき母方の祖母なる人、又は我が母人よりさまざまの昔話、物語のたぐひつぎつぎにせがみては、飽く事なく聞く時の心なりき。桃太郎かちかち山は誰も皆知れる話なれば誰人より聽き覺えしかを知らざれども、松山鏡落窪物語鉢かづき姫などは、我が祖母我が母の懷に眠りつつ幾度となく語られしものなれば、そのかみの若かりし母の聲さへまざまざと耳に殘りて、其の折物語の悲しさに涙流せし心地の今もわびしく思ひ出でられては返らぬ日のいとせめて戀ひしきもはかなし。
 その祖母なる人はものの記憶よかりし人にて「八犬傳」など芳柳閣の邊迄|暗誦《そら》んじ居て、求むれば何時も高らかに誦《ず》して聞かせ給ひぬ。「平家物語」の幾章も亦かくしてわれは聞き覺えしなり。
 父は若きより讀書を好み詩をよくしたりと聞けど、和歌の上手なりしその祖母及び今も變らず月雪花《つきゆきはな》の折にふれては詠み出づる母を見眞似て、われは假名文字の書《ふみ》多く好みて讀みしが、初めて三十一字の歌つくりならひしも十二三の頃にかありけん。いかなる歌を詠み出でしか今記憶に殘るものなきは恨みなり。

「少年世界」は恰も我が小學へ通ひ初《そ》めし頃世に出でたれば、我が頭にいちはやく彫られしは小波山人の懷しき名にほかならず。その頃の人の心はいかばかり長閑けかりけん、いかにして家庭を圓滿にすべきか、如何に
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水上 滝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング