は生血を吸はるるにはあらずやと思ひ、或は十字架にかけらるるにはあらざるかとさへ疑はれて、誰一人聲高に物言ふ者も無く何れも息をころして安否を氣づかひしが、夕暮方その子のつつがなくかへされて來たりし時、予等皆怖ろしき危難を逃れたる心地してちひさき胸を撫で下したり。
 今は懷かしき日の事にて彼の一篇はそれより想ひ浮びしものなり。

 予にとりて文學はただ慰みなり。曾て文學は男子一生の事業となすに足るや否やといふ題を掲げて諸家の説を求めし雜誌ありしが、予は事業なる文字の故も無く厭はしき心地して、かかる問に眞顏にて答ふる人の心持わが思ひも及ばざる勇しきものなる事を知りて寂しかりき。
 われ常に思へり、われにして若し世の多くの人の如く勳章を得てなぐさまば、われにしてその人々の如く文學事業に一身を捧ぐる事を得ばいかばかり幸ならんと。
 文學は遂にわが頼り無きなぐさみなり。(大正二年春)
[#地から1字上げ]――「三田文學」大正七年八月號



底本:「水上瀧太郎全集 九卷」岩波書店
   1940(昭和15)年12月15日発行
入力:柳田節
校正:門田裕志
2005年1月19日作成
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