きからに文筆を弄んでゐるのか或は本職的に沒頭してゐるのか」といふ頭腦《あたま》の古い連中のおきまり文句である。換言すれば道樂か本氣かといふのであらうが、自分の創作慾は〔十七字略〕政治家と稱される人間が憲政を弄ぶのとは、些か趣を異にして居る。自分は文筆で衣食はしてゐないが、それが本氣でない證據にはならない。銀行員が銀行の仕事ばかりしてゐたからといつて、必ずしもその人が本氣だとは限らない。要はその意志にあるので、外觀の差別は問題の外である。自分が勸善懲惡を專一にしたり、「卑賤階級」を顧客として創作をするのなら、それは本氣でないと云はれても爲方が無い。吉村忠雄氏又は次郎生の如き、お粗末な程簡短な人間には、手取早い職業別によつて、人を見る以上に人間性を見る丈の能力は無いに違ひない。
 更に粗雜なる頭腦の持主は、自分が數年間海外に留學したのは小説「汽車の旅」を書く爲ではなく、「必ずや其修め得た處のものを以て大いに活躍せんが爲であつたらう」と難じてゐるが、自分は「汽車の旅」を書く爲めに洋行したのだと答へても構はない。少くともあの一篇は自分が外國から歸つてから書いたものであるから、自分が何かしら海外
前へ 次へ
全21ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水上 滝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング