を、極端なる英雄豪傑聖人善人と、極端なる弱蟲卑怯者佞人惡人の二派に分ける慣習があるので、その折角の偉人豪傑、又は反對の惡人極道も、人形芝居の人形よりも更に遙に人間らしさを缺いたものになり下つてしまふ。吉村忠雄氏又は次郎生が要求する處も、即ち此の人間らしからぬ人間として「先生」を描けといふに外ならない。
 自分は「先生」が上野の山の砲聲を聞きながら西洋の經濟書を講義したといふ逸事や、伯爵に敍すると云ふのを拒んだといふ話などよりも、あれ程一から十迄警世の事に一身を任ねた人も家庭に於ては極端に子供を甘やかしたといふ話を聞いた時に、かへつて「先生」の人となりを懷しく思つた。自分は「先生」を曲解して、人形や土偶《でく》にはし度くない。「先生」を偉大なりと思ふ丈「先生」を人間扱ひし度いのである。
 お氣の毒ながら吉村忠雄氏又は次郎生は、單に文藝を解せざる「卑賤民」であるばかりでなく、全然文字を解さないのではないかとさへ疑はれる。それは「足下は言はん、先生は然る波瀾に富んだ性行の人ではなく世に平凡なる偉人と言はれし通り頗る常識の發達せる平凡なる人であつた」といふ聞き捨てならぬ一節である。自分の「先生
前へ 次へ
全21ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水上 滝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング