親や乃至は平常生活から家庭に於ける起居皆一々手に取る如く知り拔いて居るものゝ一人である。
ではあるが君が文學に趣味を持つて居る、文才に長けて居るといふ事を他人から聞き傳へたり紙上で見たりしたのは比較的後の事に屬するのである。
それは何故かといふに君が筆を執る際は必ず姓名共に別名を用ひて居ること、も一つは余が餘りに君とは近親であるから平常君が文學書など繙《ひもと》いて居るのを知つて居ても、所謂文士仲間に左《と》や右《か》う言はれる程では勿論ないし、猶又何に彼《あ》の子供が――といふ觀念が先入主となつて居た事とが、余の君の文才を知ることの後《おく》れた主たる原因であると申したい。
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と書出して、扨てその人は自分が「所謂文士の仲間入りをして居る」事を知り、
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彼の子供が何《ど》んな事を書くだらうとか、どんな文藝上の手腕をもつて居るだらうとか、或は題材は何んなものを捉へるだらうとか、それはそれは余の君に對する期待は蓋し豫想外に大きなものであつたのである。
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と稱してゐる。而して御苦勞樣にも「多忙な身ではあるが、三田文學に
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