三に君に尋ねたいのは君の文藝名である。多くの所謂文士と稱するものは大概皆名前だけ雅號樣のものを用ひて居るのに君は姓までも變へて居る。彼れは何故本姓ではいけないのか、あれは法律で名前だけにしろと定めてある譯でなく各自が勝手に假の名を用ひるので、夫れも是非とも用ひなければならないといふ規定がある譯ぢやなし、であるから余は姓迄も改めて居るのだと言へば夫れまでだが、男子が筆を取つて天下に見《まみ》へるのならば須《すべか》らく堂々とやるべしだ。それが慣習とか或はさうするに至る歴史とか故事とかがあるといふならば名前だけ雅號を用ひて、姓は本姓にして置けばよいではないか、何うだらう此事は?
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 吉村忠雄又は次郎生と稱する「堂々たる男子」で、しかも匿名を用ゐてゐる人は、「先生」が新聞に出てゐる中に此の一文を寄せて掲載を中止させようと思つた程だと云つてゐる。さうして他人の雅號を用ゐる事を云云しながら、
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余は今此書を匿名でもつて君に呈上するが、之は暫時許して呉れ玉へ、其中には屹度判る時が來るから、君も此書を手にしたからには何人が寄越したかと屹度疑念を抱くことだらう、何人であるか當てて見るのも一|面《めん》面白いことだらうと思ふ。
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 といい氣なよたを飛ばした擧句に、
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以上の問に對して日々紙上なり三田文學なりへ御答をして下さつたらば、余の頗る幸甚とするところである。(二月十八日夜)
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 と最後を結んだ。
 吉村忠雄又は次郎生は、自己の匿名を辯護して、「何人であるか當てて見るも面白いだらう」と云つてゐるが、自分には自分の「近親者」の中にこんな馬鹿々々しい人間を發見する事は出來ない。この「堂々たる男子」は深川區猿江町と封筒には書いて居るけれど、郵便局の消印は三田局で、大正七年二月十九日午前十時と十一時の間に受付けたものである。自分には深川猿江町に住む親類も友人も無いから、これも亦「堂々たる男子」の卑怯なる詐術《トリツク》に過ぎないのであらう。
 何れにしても自分には誰人の手に成つた一文であるか見當がつかない。文中見るところの目|障《ざは》りな田舍訛、例之《たとへば》「なけらねばならぬ」「好きからに筆を執つて」などと云ふのを見ると、頭腦ばかりでなく起居動作も粗野な人間なのだらうと思ふけれど、そんな粗野な人間を「近親者」の中に見出す事は出來ない。或は吉村忠雄氏又は次郎生は住所を詐り、姓名をかくすのと同一筆法で「近親者」だなどと嘘をついてゐるのかとさへ疑はれる位、誰人の所業か推測さへも不可能である。兎に角自分は自分の近親者の中に、かういふ沒分曉漢《わからずや》の居ない事を希望する。
 吉村忠雄氏又は次郎生は「あの子供が」と輕蔑した語調で繰返してゐるが、子供は常に大人よりも悧巧である。自分は自分よりも年長の者よりも年少の者に對する時の方が怖ろしい。若き時代は常に一種の脅迫的壓倒力を以て自分の後に迫つて來る。子供を馬鹿にする者は自分の耄碌に氣の附かない人間に違ひない。
 詰問者は明かに「先生」に對して義憤を發してゐる。不幸にして自分は彼の一篇に對して自らその出來榮の勝れてゐないのを恥ぢてゐる。從つて彼の作品が「物になつちや居ない」と云はれても爲方が無いと覺悟してゐるが、しかし吉村忠雄氏又は次郎生の言ふやうな見當違ひの攻撃に對しては、甘んじて首肯する事は出來無い。
 第一に吉村忠雄氏又は次郎生は、文藝の價値は「一般讀者の感興を惹くことの多少と勸善懲惡的な誘導力の多少とに由りて決する」ものだと云つてゐる。尤もその前に、それは「新聞紙の如き上下卑賤あらゆる階級」を通じて讀まれるものに公表する場合と斷り、更に上下卑賤とは文藝を解すると否とを標準として決する區別だと説明してゐるが、全體の論旨から推測して、此の制限は餘り重要な意味は無く、難者は勸善懲惡の規矩によつて藝術の作品の價値を定めようとしてゐるものと見做しても差支へないらしい。貴重なる紙面を費して、今更|教訓的《ダイダクテイツク》な藝術の作品は價値の高いものでない事を茲に説明する勞は避ける事にするが、吉村忠雄氏又は次郎生の論理から云へば、浪花節は他のあらゆる音曲よりも價値のあるもの、曾我迺家の仁輪加《にはか》は歌舞伎劇よりも尊いと云はなければならない。更に他の方面に例をとれば、愚夫愚婦の大衆に信奉される天理教のお婆さんは並ぶものなき偉人であらう。熟々《つく/″\》考へる迄も無く吉村忠雄氏又は次郎生の如きは「上下卑賤の階級」の最も卑賤なる部類に屬する人に違ひない。
 曾て乃木大將が腹を切つて死んだ頃、渡邊霞亭といふ小説家がその逸事を集めて小説體で書いた事があつた。勿論「一般讀者の感興を惹くこと」を專一と
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