したもので、忠君愛國の結晶、勤儉尚武の模範として、主人公なる將軍を神の座に押直さうと努めたものであつた。その一節に、將軍の質素を物語るところがあつた。兵營から時たま歸つて來る夫を慰める爲に、夫人は夫の好物の豆腐はもとより、心づくしの料理を膳にのぼせてすすめたが、將軍は數々の料理の並んだのを見て反つて不機嫌になり、豆腐以外には一切箸をつけなかつた。食事が濟むと夫人に向つて、久々に我家でうまい食事をした喜びを述べた後で、「若し豆腐だけで、他のおかずがなかつたらもつとうまかつたらう」と將軍は云つたといふのである。此の話を讀んだ時に、自分は將軍の芝居氣の多かつた事には反感を持つて居たけれど、兎に角珍しい悲劇的性格の人として崇敬もしてゐたのが、意外に安つぽいけちな人間に思はれて來て不愉快だつた。教訓的の作品といふものは、屡々かういふ弊害に傾き易い事を知つて貰ひ度い。學校で教へる二宮金次郎や近江聖人を道具に使ふ修身よりも、狐や烏が物を云ふお伽噺が如何に深く子供の純美なる心に觸れるか。無理押しつけに押しつけて飮み込ませようとする修身が、殆んど教育的効果を持つてゐない事は、實際教育の任に當る人の常に嘆じてゐるところである。
「先生」が「物になつちや居ない」といふ批評は自分の甘受するところである。けれども吉村忠雄氏又は次郎生は、彼の作品が如何《どう》いふ性質のものであるかを全然了解してゐない。如何に「文藝を解せざる卑賤の階級」の一人にしても、あまりに自負し過ぎた賤民である。作品の傾向を了解しないのは爲方が無いとしても、賤民の癖に斯くあれと指導してゐるその指導が、全く作者としての自分の常に避け度いと思ふところを目標としてゐるのだから、その標準から「物になつちや居ない」と罵られるのは寧ろ名譽だといつてもいい。
 吉村忠雄氏又は次郎生は「迅き事風の如きものの後には動かざること巖の如きものを、靜なること林の如きものの後には波瀾幾千丈といつた風のものを配するとか、坦々でなく紆餘曲折端睨すべからざる中に偉人の俤を偲ぶといふ風にするのが眞に是れ偉人を偉人として遇し、讀者の興味を彌が上にも湧き立たせ且は後世の人々をして其俤を偲ばしむる眞の方法」だと説いてゐるが、その單純淺薄な英雄化、戲曲化を避けるのが、眞に偉人を偉人として偲ばせるものだと自分は考へる。古來我國の歴史も戲曲も物語も、その中に現れる人物を、極端なる英雄豪傑聖人善人と、極端なる弱蟲卑怯者佞人惡人の二派に分ける慣習があるので、その折角の偉人豪傑、又は反對の惡人極道も、人形芝居の人形よりも更に遙に人間らしさを缺いたものになり下つてしまふ。吉村忠雄氏又は次郎生が要求する處も、即ち此の人間らしからぬ人間として「先生」を描けといふに外ならない。
 自分は「先生」が上野の山の砲聲を聞きながら西洋の經濟書を講義したといふ逸事や、伯爵に敍すると云ふのを拒んだといふ話などよりも、あれ程一から十迄警世の事に一身を任ねた人も家庭に於ては極端に子供を甘やかしたといふ話を聞いた時に、かへつて「先生」の人となりを懷しく思つた。自分は「先生」を曲解して、人形や土偶《でく》にはし度くない。「先生」を偉大なりと思ふ丈「先生」を人間扱ひし度いのである。
 お氣の毒ながら吉村忠雄氏又は次郎生は、單に文藝を解せざる「卑賤民」であるばかりでなく、全然文字を解さないのではないかとさへ疑はれる。それは「足下は言はん、先生は然る波瀾に富んだ性行の人ではなく世に平凡なる偉人と言はれし通り頗る常識の發達せる平凡なる人であつた」といふ聞き捨てならぬ一節である。自分の「先生」の何處に「先生」を平凡人だと書いてあるか。自分は吉村忠雄氏又は次郎生の考へる如く、常識の發達した人は即ち平凡人だなどゝいふ亂暴な考へは持つて居ない。又偉大なる人は必ず奇行に富むものだなどゝいふ間違つた考へも持つて居ない。「當時の人にしては奇想天外より落つるといふ樣なことばかりされた人である」とさもほこりかに詰問者は書立ててゐるが、「先生」の偉らかつたのは、最も吾々の生活を時勢の進歩に伴はせつつ合理的に導いた事にあるのであつて、滿洲浪人や衆議院々外團のやうな奇行を賣物にする徒輩と同列に見られては堪らない。乃木將軍は腹を切つたから偉いのではない。西郷隆盛は犬を引張つて立つて居るから偉いのではない。我が「先生」は腹ごなしに米をついたから偉いのではないのである。
 これで「先生」に對する答辯は濟んだから、ついでに斷つて置くが、「先生」は新作ではなくて大正一年か二年頃に、小説らしからぬ小説を書き度いといふ欲求の起り始めた時代のものである。特に末尾にその稿了の日附を記して置いたのだが、古い原稿を掲げる事は新聞社の喜ばぬところだつたと見えて、作者には無斷で削つてしまつた。
 次に質問されたのは「好
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