きからに文筆を弄んでゐるのか或は本職的に沒頭してゐるのか」といふ頭腦《あたま》の古い連中のおきまり文句である。換言すれば道樂か本氣かといふのであらうが、自分の創作慾は〔十七字略〕政治家と稱される人間が憲政を弄ぶのとは、些か趣を異にして居る。自分は文筆で衣食はしてゐないが、それが本氣でない證據にはならない。銀行員が銀行の仕事ばかりしてゐたからといつて、必ずしもその人が本氣だとは限らない。要はその意志にあるので、外觀の差別は問題の外である。自分が勸善懲惡を專一にしたり、「卑賤階級」を顧客として創作をするのなら、それは本氣でないと云はれても爲方が無い。吉村忠雄氏又は次郎生の如き、お粗末な程簡短な人間には、手取早い職業別によつて、人を見る以上に人間性を見る丈の能力は無いに違ひない。
更に粗雜なる頭腦の持主は、自分が數年間海外に留學したのは小説「汽車の旅」を書く爲ではなく、「必ずや其修め得た處のものを以て大いに活躍せんが爲であつたらう」と難じてゐるが、自分は「汽車の旅」を書く爲めに洋行したのだと答へても構はない。少くともあの一篇は自分が外國から歸つてから書いたものであるから、自分が何かしら海外で學んだものがあれば、それはあの中に含まれてゐる筈である。正直のところ自分は「先生」には自信が無いが、「汽車の旅」の方は多少自分の作品としては、いいものだと信じてゐる。學校で無理に教へる學問などよりも遙に尊いものが、あの小篇の中に潛んでゐる事を思ふと、自分は海外留學の徒事でなかつた事を滿足に思ふのである。
吉村忠雄氏又は次郎生は、さも知つたふりをして「君が專門に修めたものでも確乎《しつか》りとやつたがいゝ」などゝ云つてゐるが、自分は此の人々が考へてゐるやうな意味で專門などは何もない。自分は一科の學問をする爲に外國へ行つたのでは無い。自分は自分を最もいい人間にする爲の教養を深めようとは思つてゐたが、本來自分の性質から云つても、罐詰の學問などは修め度くなかつた。「近親者」と名告りながら、その位の事も知らないのは、愈々「近親者」でない證據かと思ふと、自分にとつては限り無き喜びである。
吉村忠雄氏又は次郎生は「卑賤階級」の人間に特有な「今や國事は日日に多端で三文文士の御託を聞くよりも一人でも多くの實際家を必要としてゐる」と、よく實業家と稱される人間の中の、金力と頭腦の力の不平均なものが、恥《はづか》し氣も無く繰返す言葉を口にして自分の教養の無い事を正直に曝《さら》け出した。目前の好景氣に浮調子となつた成金は、如何に頭腦の無い「實際家」の集團によつて國民が衰頽《デジエネレエト》するかを知らないのである。今「國事日日に多端」なる時に最も必要なのは、ハンマアばかり握つてゐて頭腦の空虚な人間が不必要だと思つて居る人間そのものである。原始時代の人間は食物丈で生きて居たかもしれないが、文明の世の中に於ては人は思想なくしては生甲斐が無いのである。
匿名好きの吉村忠雄氏又は次郎生は、水上瀧太郎の匿名を何故か威たけだかに詰問してゐる。見聞の狹い「卑賤民」は雅號は單に下の名前丈を變へるものだと考へてゐるが、東西古今を問はず、幾多の文人墨客の中には全姓名に變名を換へ用ゐた例がいくらもある。ピエル・ロテイ、ジヨオジ・サンドなどいふのも筆技名《ノン・ド・プリユム》である。江戸時代の戲作者の殆んどすべてが本名を用ゐてゐない事は、勸善懲惡主義の匿名好きの吉村忠雄氏又は次郎生も先刻承知の事であらう。近くは春之舍おぼろ、嵯峨之舍おむろ、二葉亭四迷の如き、更に新しいところで太田正雄氏の如きは木下杢太郎、きしのあかしや、地下一尺生、その他めまぐるしい程の變名を用ゐてゐる。自分が自分の崇敬する明治大正の一大藝術家泉鏡花先生の作中の人物の姓名を無斷借用して水上瀧太郎と稱《とな》へたのは、別段深い意味はない。子供の時分から物を書く時には、親のつけた名前よりも自分自身で考へた名がつけ度かつたので、さうした迄の事である。しきりに「近親者」だ「近親者」だとしつつこく云ひながら、ちつとも本當の自分を知らないところを見ると、吉村忠雄氏又は次郎生は人違ひをしてゐるのではないかとも疑はれる。斷つて置くが自分の本名は阿部章藏である。
吉村忠雄氏又は次郎生の愚にもつかない質問に長々と答へながら、自分は自分の正直過ぎるのが馬鹿々々しくなつたが、考へて見ると吉村忠雄氏又は次郎生の如き「卑賤民」は數に於て恐るべき勢力を持つてゐるのであるから、自分が本氣で努力してゐる藝術の爲にも、勞をいとはず返答しなければならないやうにも思はれる。讀者恐らくは、馬鹿々々しい詰問に取合つてゐる自分の愚を救ひ難しとするであらうが、その自分の馬鹿正直をさして即ち「愚者の鼻息」と題したのである。(大正七年六月十八日)
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