と思ふけれど、そんな粗野な人間を「近親者」の中に見出す事は出來ない。或は吉村忠雄氏又は次郎生は住所を詐り、姓名をかくすのと同一筆法で「近親者」だなどと嘘をついてゐるのかとさへ疑はれる位、誰人の所業か推測さへも不可能である。兎に角自分は自分の近親者の中に、かういふ沒分曉漢《わからずや》の居ない事を希望する。
 吉村忠雄氏又は次郎生は「あの子供が」と輕蔑した語調で繰返してゐるが、子供は常に大人よりも悧巧である。自分は自分よりも年長の者よりも年少の者に對する時の方が怖ろしい。若き時代は常に一種の脅迫的壓倒力を以て自分の後に迫つて來る。子供を馬鹿にする者は自分の耄碌に氣の附かない人間に違ひない。
 詰問者は明かに「先生」に對して義憤を發してゐる。不幸にして自分は彼の一篇に對して自らその出來榮の勝れてゐないのを恥ぢてゐる。從つて彼の作品が「物になつちや居ない」と云はれても爲方が無いと覺悟してゐるが、しかし吉村忠雄氏又は次郎生の言ふやうな見當違ひの攻撃に對しては、甘んじて首肯する事は出來無い。
 第一に吉村忠雄氏又は次郎生は、文藝の價値は「一般讀者の感興を惹くことの多少と勸善懲惡的な誘導力の多少とに由りて決する」ものだと云つてゐる。尤もその前に、それは「新聞紙の如き上下卑賤あらゆる階級」を通じて讀まれるものに公表する場合と斷り、更に上下卑賤とは文藝を解すると否とを標準として決する區別だと説明してゐるが、全體の論旨から推測して、此の制限は餘り重要な意味は無く、難者は勸善懲惡の規矩によつて藝術の作品の價値を定めようとしてゐるものと見做しても差支へないらしい。貴重なる紙面を費して、今更|教訓的《ダイダクテイツク》な藝術の作品は價値の高いものでない事を茲に説明する勞は避ける事にするが、吉村忠雄氏又は次郎生の論理から云へば、浪花節は他のあらゆる音曲よりも價値のあるもの、曾我迺家の仁輪加《にはか》は歌舞伎劇よりも尊いと云はなければならない。更に他の方面に例をとれば、愚夫愚婦の大衆に信奉される天理教のお婆さんは並ぶものなき偉人であらう。熟々《つく/″\》考へる迄も無く吉村忠雄氏又は次郎生の如きは「上下卑賤の階級」の最も卑賤なる部類に屬する人に違ひない。
 曾て乃木大將が腹を切つて死んだ頃、渡邊霞亭といふ小説家がその逸事を集めて小説體で書いた事があつた。勿論「一般讀者の感興を惹くこと」を專一と
前へ 次へ
全11ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水上 滝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング