的に書いた前半とは違つて、細かい洞察と温い同情を缺いてゐる。さうして此の破綻が一篇の小説を前半と後半と別々の物にしてしまつて、一貫して變らない興味を失ふ原因になつた。
 立入つた話ではあるが、技巧の問題として希望すれば、夫人は此の小説を全く會話拔きで描くべき位置にあつたのだと思ふ。それが夫人の力量に最適の形式だつたやうに考へられる。さうでなければ、種々の境遇の變化の中に現れる主人公の性格を強調した心理描寫の筆を揮《ふる》ふべきであつたと思ふが、浮雲の如く去來する心持《ムウド》は描けても、より深く根ざす心理の描寫は夫人の最も不得手とするところであるから、これは無理な注文として差控へるのが至當であらう。
 話は變るが自分には、夢子の意地張りなところを作者が非常に買つてゐるのが面白かつた。
「餘計者」も亦冒頭の朝子といふ女主人公が、その親、兄、姉にさへ餘計者にされたつき[#「つき」に傍点]の惡い子だつた生ひ立ちを描いたところが勝れていゝ。讀み出した時、これは立派な小説に違ひ無いと思つた。けれども「夢子」の場合と同じく、現在を描いたところになると、全く調子が狂つて、何の爲にあんな堂々たる生ひ立ちの記が必要だつたのかわからなくなつた。女が夫の家を出る動機とか、その夫との關係、その家の状態、殊に朝子その人のなぐさまぬ心状が、一切不明瞭である。若し朝子がその幼時の如く餘計者であるならば、その餘計者である事と、家を出てからの行爲との間に原因結果の關係が無ければ、折角立派な生ひ立ちの記も無用の贅物に過ぎない。
 例によつて臆測を逞しくすると、作者は事實の興味に乘せられて、それ程でも無い事を一大事として取扱つたのではあるまいか。少くとも自分には、内には激しい苦悶不滿に惱み、外には不愉快な境遇の壓迫に苦しんでゐる男女とは思はれなかつた。殊に翼《たすく》といふ男は、作者が好意を以て描かうとした人間とは全然別種の人間としか考へられない。茲に作者が描かうとした人間とは即ち朝子の信じる翼だと云つても差支へあるまい。朝子は翼をトルストイの小説「復活」の主人公ネフリュドフに比べてゐる。「あのネフリュドフの眞似の出來るのは翼一人だと思つた。翼ならシベリヤまで行く位何でもなく思ふであらう。」と云つてゐる。けれども吾々が此の小説に描かれた丈で見ると、翼は「戀にやぶれ、商法に破れ、遂にみづから掛けたわなにみづから掛つて苦しんでゐながら、それをも強ひて拔けようとはしないで、苦しめる丈苦しまうといふやうな男」と呼ばれる際《きは》の悲壯な男ではない。彼は戀に破れたかもしれない。しかしそれは幾多の浮氣な男がしくじつた戀と何處に相違があるのか。「ふとしたことから關係した女」と夫婦になることにも、何んの悔恨も伴はない男としか考へられない男の戀の失敗は、やがて彼が座興として人々にほこり得る程度のものに過ぎない。彼は「苦しめる丈苦しまう」としてゐるのではない。「なりゆきに任して進んでゆくより外に道はない。」といふ、持つて生れた極めて樂天的な考へから、懷疑的な反省的な人間ならば苦痛とする事さへ苦痛でなく過して行ける人間なのだ。ネフリュドフには良心の苛責があり、道徳的倫理的思索反省が常にあつた。彼がシベリヤ迄もゆかなければならなかつたのはその爲である。翼には道徳感《モオラル・センス》は無いのだ。彼がなりゆきに任して、呑氣な顏をしてゐられるのはその爲である。ネフリュドフが、どんな苦しみをも苦しまうとした心には、彼の道徳的意力の伴つてゐる事を忘れてはならない。翼がどんな事も苦にならないのは、彼には何らの道念がなかつたからである。
 自分は、トルストイのネフリュドフに、かゝる男を比較されたのを見て、失笑を禁じる事が出來なかつた。さうして作者が此の小説に失敗したのは、つまらぬ男女の氣まぐれを、さも悲劇らしく買ひかぶつた結果だと推論した。
 ちひさな事を大げさに考へる事、あんまりしつつこい物にも倦きたからお茶漬にしようといふやうな輕い事を、せつぱつまつた事のやうに考へる内容の不充實が、此の比較的に長い、當然複雜な背景を要求する小説を、平淡無味なものにしてしまつた。
 たゞ面白いと思ふのは、意地張りの我儘者に對する作者の同情が、露骨に出てゐるところである。甚だ失禮な申状だが、想ふに岡田夫人は意地張りの我儘者であらう。さうしてその爲に餘計者にされる不滿と哀愁を、時に沁々感じる人であらう。その哀愁の伴ふ時、夫人は「餘計者」の冒頭數頁が持つやうな緊張した描寫を可能にし、その憤懣のみが堪へ難く荒《すさ》ぶ時、やけになる心地を夫人は切實に感じる人であらう。かゝる時、夫人は此の小説の朝子の心を經驗するのではないだらうか。
 やけといへば、一體に夫人の作品には、何處かに捨鉢を喜ぶ傾向が顯《あら》はれる。それは捨鉢を主張したものでもなく、捨鉢に同情してゐるのでも無い。殆ど無意識に作品の基調を成してゐるのである。それ丈動かし難いものに思はれる。若し此の捨鉢が一層強く深く、色彩を鮮明にして來る日があつたら、夫人の作品には更に遙に純一性を増すに違ひ無い。
「餘計者」の朝子が家出に至る迄の心状は、正面からも、又は背景としても、殆ど描かれずに終つてしまつたが、要するに一切の事になぐさまぬ心がその原因をなしてゐるのであらう。そのなぐさまぬ心、その爲に世を捨鉢の氣まぐれともなる心持は、「青い帽子」及び「假裝」の中に共に現れる二人の女にも見出される。この二人の女は不愉快な新聞語を以て呼べば、所謂新しい女であらう。自分のやうな、女性に對しては、自分自身の主我的な要求から、寧ろ古めかしい優しさを強要する傾向の者には、反感を持たないではゐられない種類の女である。勿論茲に新しい女とは、新聞記者の理解する丈の意味に於ての新しい女で、決してよき意味に於ける進歩した女を意味するのでは無い。殊にこの二人、即ちかし子とつね子とは、決してその思想に於て新しい女ではなく、ただ單に行爲の上に、慣習を破壞したあばずれが現れてゐる際《きは》の女なのである。兎に角今此の小説の中では、二人は何か心も躍るやうな刺戟に憧れ惱んでゐる事は確かである。「青い帽子」に於ては、夫人の得意とする細緻な觀察をほしいまゝにした端艇《ボウト》競爭の場景の中に明確に描かれてゐる。うまいと思つた。しかも自分の我儘は、この二人の女の態度の小憎らしさから、この作品を好む事が出來なかつた。作者が彼等の態度を是認してゐるところが、自分を不快にしたのかもしれない。「假裝」の方は散文詩のやうな感觸を持つ小品で、主としてその作品を貫くかし子の、やるせないやうな心持には自分は同感する事が出來た。或時の人の心の動搖をとらへたものとして、極めて氣の利いた作品であるが、あまりに形式を氣にしてわざとらしさがいやだ。
 右の二篇の中のつね子といふ女は、作者がより多く同情してゐるかし子よりも、爲《な》す事する事が付燒刄で堪らなく「いやな奴」である。しかしその「いやな奴」よりも、明かに「いやな奴」として描かれたのは「灯」の夏子である。しかも自分には此の「いやな奴」の方が、つね子といふ「いやな奴」よりは、まだしもましに思はれる。それは作者がつね子に對してはその行爲に反感を持たず、寧ろそれを肯定しながら、夏子の態度は一々否定してゐるのが、かへつて吾々をして前者に反感を抱かせるのではないだらうか。つまらない事のやうだけれど、描寫論の一端として、心得べき事に思はれる。
 作者が明白に「いやな奴」として取扱つてゐる夏子に對して、作者が明白に贔負にしてゐる千の助は、複雜な陰影の多い半生を背景にした人らしく所々に説明されてゐながら、結局その心持は極めて淡くしか推察されない。勿論作品の性質が寫生《スケッチ》風のものであるから、それに對して廣い背景を要求するのは無理かもしれないが、一體に夫人の作品には、背景《バック》の淺い恨みがあるので、ついでを借りて云ひ度いのである。そのかはり、此の夏の夕の一※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話は、平淡に描かれてゐる丈明るい色彩で、男も女も當代の浮世繪のやうに生々《いき/\》とした刺戟性を持つて印象を殘すのである。好きではないけれども、この點に於てうまい作品には違ひない。
 うまいといふ方から行くと「雨」「お伊勢」「駒鳥」などは議論無しに推稱さるべき作品である。かういふ作品にあらはれる夫人の特質は、觀察描寫共に細緻な事である。規模の大きい或事件の進展を描いた他の小説には、夫人の最も不得意らしい心理描寫性格描寫の極めて粗雜な事が、明確に觀取されるのに、これらの短篇中の短篇にはさういふ要素を比較的に必要としない爲に、無瑕の寶玉の光を帶びてゐる。夫人は人の心の深い動搖、變化、展開を描く事には拙劣だが、或一瞬時の心の浮動は、極めて親切叮嚀に同情深く描き出す。自分が推稱する作品中の「お伊勢」「駒鳥」などは正にこの好適例である。
「雨」に至つては「八千代集」中最も短いものではあるが、同時に最も完全な短篇として第一に推讚し度い。夫人の寫生家としての冴えた手腕《うで》が、他の作品では兎もすると、押へても押へ切れない夫人特有の片意地や、あて氣や、山氣に邪魔されて、本來の光を現さないのが、此處では立派な作品を成し、しかも藝術家に有勝《ありがち》の芝居氣のまじらない純粹の人の愛が、一字一句に籠つてゐて、幾度繰返して讀んで見ても、自分は歡喜に伴ふ涙ぐましい程の心地を覺えるのである。ふと乘合せた電車の中の姉弟《きやうだい》の、その境遇性格、全生涯迄も、僅に數頁の文字の中に暗示されてゐるばかりで無く、もつと廣い人間社會が、その背後に横たはる事さへ歴然と示されてゐるのである。集中最も完全な作品であると同時に、波瀾に富んだ長篇よりも、遙に深みのある作品である。靜止せる場合を描いて、尚且動いて止まない人生の一角をまざ/″\と見せた逸品である。紅葉時代の文脈を引いた誇張の無い氣持ちのいゝ夫人の文體は、此作に於て、初めてしつくりあてはまつたやうな氣がした。自己を語るには、思想を適確に把握し得ない恨みがあり、自己を描くには、あまりに筆の弱過ぎる嫌ひのある夫人は、要するにその持前の細かい觀察に、女性特有の温い同情の伴つた時、寫生家――寫實主義者といふ文字の與へる概念と異なると同時に、ホトヽギスの所謂寫生文を書く人とも違ふ意味で――としての本來の技能が最も自然に發露して、かゝる逸品を創作し得るのではないだらうか。敢て夫人が今後の筆硯の爲に、自分は押切つた事を云ひ添へるのである。
「雨」と並べて、自分が最も愛讀したのは「うつぎ」である。一體に他の作品の多くに見えるあまり感心しない趣味と、かなり力強く働いてゐる芝居氣から、此作品は全然免れて、極めて自然なのが、自分をして幾度も繰返して讀ませた所以である。
 元來どの作家でも、追憶囘想の作品には、不知不識詠嘆的になり勝であるが、意力の強い夫人は、全然この弱點を見せずに、飽迄客觀的な態度を持し、しかも面白い※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話のひとつひとつを繪卷物のやうに展開した。殊に一人稱の敍述に似もやらず、作中の人のすべてが、何れも截然とした特色を持つ個々の性格として躍動してゐるのは敬服に値《あたひ》する。さうしてその個々の人々の一生及び相互の關係迄吾々は頭を痛める事なく覗ふ事が出來る。こゝにも亦夫人の寫生家としての特質と、その柔かい色彩と、その靜に寂しい韻律を持つ極めて上品な夫人の文章を推稱し度い。
 凡そ多くの作家にとつて、最も懷しい作品は、その構想表現に工風を凝らした作品ではなく、極めて自然に自分の心胸に泉の如く湧き上る感情を、そのまゝ筆にした作品であらう。其處には屡々心ある作家が、自ら冷汗を覺える小細工、脅迫、虚僞が無い。恐らくは夫人が自己の作品中最も自らなつかしとするものは「うつぎ」以外にあるまいと思ふ。
「うつぎ」に比べると、同じやうな味ひを多分に持ちながら、比較的に劣るのは「指輪」である。
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