これは事實の面白さを羅列する忙しさに、作者の理解同情が、物語らるゝ事象の中に、滲透し切れなかつた結果であらう。しかしそれも「うつぎ」に比べての事で、他の作品の中では、矢張り自分の好む物のひとつに數へて憚らない。
自分が最もつまらない、馬鹿々々しい作品だと思つたのは「横町の光氏」である。低級子女が見て光氏とする横町の若い人を、夫人も亦同じ程度に肯定してゐるのが馬鹿々々しい。且その男の口吻の氣障な事は、當然カリカチュアとして現さるべきであつたと思ふ。こゝに又不幸にして夫人の惡趣味の流露を見た。
「堂島裏」も「横町の光氏」に見る同じいやみを感じるけれど、この方は作品としての纏りのいゝ事が、彼に比して遙に勝つてゐる。
「鷹の夢」は久保田万太郎氏が、岡田夫人の噂が出ると、必ず「新緑」と共に引張り出して、誇大に感服して見せる作品であるが、それはたま/\久保田万太郎氏の淡い趣致を喜ぶ獨特の好みを表白したものとして、久保田氏を評する時により多く面白い證明のよすがとなる可き話《はなし》で、作品としては可も無く不可も無い、極めて平凡なものだと思ふ。
自分は最後に、上來述べて來たところを綜合して、夫人の作品の特質傾向及び夫人の作品の弱點短所を簡略に抽出し度いと思つてゐたが、それはこゝ迄の長々しい批評の中に斷片的ながら云ひ盡されて居るやうに考へられるのでやめる事にした。
或文壇の老大家が曾て人に語つて「俺は女の書いた物は何でも面白い。女の書いた物だと思ふと惡口は云へない。」と云つたといふ巷《ちまた》の噂を聞いた事がある。けれども明治大正にかけて、吾々の時代が生んだ女流作家中、歌人與謝野晶子氏と小説家樋口一葉女史以外に、無條件に推讚し得る人が何處にあるか。殆どすべての女流作家は、單に女だといふ先天性の爲に、文壇の色どりとして介在してゐるに過ぎない。たま/\野上彌生、中條百合子二氏の如き、かなりいゝ素質を持つてゐるらしい人が現れても、自制心の缺乏から、中途にして邪路に踏入つてしまふ時、同じくよき素質を持ちながら、多年創作の筆を續けながら、尚且自己の特質を自覺しないらしい岡田夫人を惜しいと思ふ。
あまり度々引合ひに出して濟まないが、久保田万太郎氏の如きは、今日迄の岡田夫人の作品を見ても、夫人は現代女流作家中唯一の勝れた作家だと云つてゐるが、自分は左程に思はない。しかし夫人が今後ほんとに自己の持つてゐるいゝ物を見出し、しつかりとそれを把握した時、必ず勝れたる作品を發表されるに違ひないと、確く信じて疑はない。
乍末《すゑながら》岡田夫人の「八千代集」を贈つて下さつた厚情を感謝し、併せて夫人の健康を祈りつゝ筆をおく。(大正七年四月二日)
[#地から1字上げ]――「三田文學」大正七年五月號
底本:「水上瀧太郎全集 九卷」岩波書店
1940(昭和15)年12月15日発行
※以下のルビ中の拗音、促音などを、小書きしました。
寫生《スケッチ》、背景《バック》
※踊り字(/\、/″\)の誤用は底本の通りとしました。
入力:柳田節
校正:門田裕志
2005年1月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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