、寧ろそれを肯定しながら、夏子の態度は一々否定してゐるのが、かへつて吾々をして前者に反感を抱かせるのではないだらうか。つまらない事のやうだけれど、描寫論の一端として、心得べき事に思はれる。
 作者が明白に「いやな奴」として取扱つてゐる夏子に對して、作者が明白に贔負にしてゐる千の助は、複雜な陰影の多い半生を背景にした人らしく所々に説明されてゐながら、結局その心持は極めて淡くしか推察されない。勿論作品の性質が寫生《スケッチ》風のものであるから、それに對して廣い背景を要求するのは無理かもしれないが、一體に夫人の作品には、背景《バック》の淺い恨みがあるので、ついでを借りて云ひ度いのである。そのかはり、此の夏の夕の一※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話は、平淡に描かれてゐる丈明るい色彩で、男も女も當代の浮世繪のやうに生々《いき/\》とした刺戟性を持つて印象を殘すのである。好きではないけれども、この點に於てうまい作品には違ひない。
 うまいといふ方から行くと「雨」「お伊勢」「駒鳥」などは議論無しに推稱さるべき作品である。かういふ作品にあらはれる夫人の特質は、觀
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