》の女なのである。兎に角今此の小説の中では、二人は何か心も躍るやうな刺戟に憧れ惱んでゐる事は確かである。「青い帽子」に於ては、夫人の得意とする細緻な觀察をほしいまゝにした端艇《ボウト》競爭の場景の中に明確に描かれてゐる。うまいと思つた。しかも自分の我儘は、この二人の女の態度の小憎らしさから、この作品を好む事が出來なかつた。作者が彼等の態度を是認してゐるところが、自分を不快にしたのかもしれない。「假裝」の方は散文詩のやうな感觸を持つ小品で、主としてその作品を貫くかし子の、やるせないやうな心持には自分は同感する事が出來た。或時の人の心の動搖をとらへたものとして、極めて氣の利いた作品であるが、あまりに形式を氣にしてわざとらしさがいやだ。
 右の二篇の中のつね子といふ女は、作者がより多く同情してゐるかし子よりも、爲《な》す事する事が付燒刄で堪らなく「いやな奴」である。しかしその「いやな奴」よりも、明かに「いやな奴」として描かれたのは「灯」の夏子である。しかも自分には此の「いやな奴」の方が、つね子といふ「いやな奴」よりは、まだしもましに思はれる。それは作者がつね子に對してはその行爲に反感を持たず
前へ 次へ
全23ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水上 滝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング