てうちあけぬ戀を胸に祕めてゐる事をうちあける。傍に第三者の態度でゐた主人《あるじ》と呼ばれる青年は、此の二人の告白を聞いてみると、自分の友の青年が戀しあつて、死ぬ時も共にと誓つた從妹といふのは、曾て自分に戀してゐた女であり、今又その惱ましき同じ人が戀してゐるといふ女は、自分自身戀しく思つてゐると同時に、初めて聞いた女の告白によれば女も亦自分を戀してゐるのであつた。
「紅雀」の中の二人の男と二人の女――一人は死んでしまつたが――の戀愛關係を最も簡短に紹介すれば右の如きものであるが、これ丈でも此の作が、如何によき戲曲の素材であるかを、人々は直《すぐ》に想像する事が出來るであらう。岡田夫人が此の一篇を小説の形式によらず、戲曲の形式で描いたなら、必ず勝れたものが出來たらうと思ふ。その理由は、平面的の描寫で現すよりも、もつと緊縮した立體的の舞臺藝術が、この材料には當然適合する性質のものだといふ一言に盡きてゐる。換言すれば人と人との關係が、長い時間を經過して發展して來るのとは反對に、瞬間的に披瀝されるところが、それを畫面では表現し惡《にく》いものにしてゐるといふのである。
一體に、吾々日本人は、舞臺に繪畫を展開する技倆には勝れてゐるが、戲曲らしい戲曲を組立てる事は、今日の所謂新しい戲曲家に於ても最も不得意とするところである。或は、本來戲曲らしい戲曲を構成する能力が無いばかりで無く、戲曲らしい戲曲の材料を掴む能力さへ無いと云ふ方が適當かもしれない。
それなのに此の一篇は、稀に見る戲曲的なもので、自分が「八千代集」中一番興味を覺えたのも、全然この特質の爲である。正直なところ、自分は近頃戲曲を書く人の中で、これ丈戲曲的な人間關係を、時間と場所の適確なる一致に於て描き出した人を外には知らない。兎角女といふと馬鹿にしたくなる傾向を持つ自分も、この作を讀んだ時は、これは馬鹿には出來ないと思つた。けれども不幸にして岡田夫人は、此の戲曲的の場面を把握しながら、心なくも小説の形式で書いた上に、その小説も新派の芝居好み、活人畫の背景好みの、有平糖の綺麗さで飾り立てた極めて感傷的なものにしてしまつた。作者の持つてゐる惡趣味が、鮮明に出てしまつたのだらうか。
時は春「うす紫にうち煙つた朧月夜」で「風も無いのに眞白に咲き滿ちた櫻の梢からは、音も無く花|片《びら》が、ひらひらひら――ひらひらとしつき
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