りなしに」散りかゝるといふやうな婦人向の、極めて通俗に美しいと呼ばるべき景色である。人物も亦不幸にして、安本龜八作の好い男二人と、その二人と肩を並べても見劣りのしない丈の高い、「うるみを持つた大きな眼が、物云はぬ先に云ひしれぬ氣高い情を語る」婦人である。
 自分には、この二青年が、どう考へても、その脱線した服裝、その輕薄な言葉つき、その淺薄な論理から推して、新派の芝居の色男以上には踏めない。新派の芝居の色男といふのは、言葉を換へて云へば、自分ではいゝ男のつもりで、その實氣障で間拔けな男の事なのである。しかもその青年の服裝其他を、作者は十分の好意を以て描いた調子が歴然と見えるのは遺憾である。
 二人とも「銀鼠色のルパシュカ」「紺のビロオドの洋袴《ズボン》」といふ、想像する丈でも失笑を禁じ得ないみなりをしてゐる。巴里の一隅に巣をくつてゐる露西亞猶太人や、バルカン半島邊から出て來た下手な畫學生などの中に、たま/\つぎだらけのルパシュカを着たのや、古び汚れたビロオドの洋袴を穿いたのなどを見ると漫畫のやうな趣致を感じるが、小ざつぱりしたルパシュカに、新調のビロオドの洋袴で、いゝ男の坊ちやん畫工が、とりすましてゐる樣子は、天長節の夜會に出る洋裝の日本婦人、赤十字社の大會に集る片田舍の村長のフロック・コオトよりも、もつと悲慘な可笑しさを覺える。もつとも、銀座邊をいゝ氣になつて、そんな風をして歩いてゐる所謂藝術家も時々は見受けるから、或はそれも別段をかしがられもしないで通用してゐるのかもしれないが、何にしても作者の爲に、亦この小説を安價にした結果の爲に、自分は此の二青年の服裝を忌々しく思はないではゐられない。
 曾て歐羅巴の都で、ビロオドの服を着て得意がつた日本の藝術家が、或商店に買物に行つて、乞食と間違へられた噂を聞いた。又或日本の藝術家がルパシュカを着て巴里の町を歩かうとしたので、その友人達が言葉を盡して反對し、やうやく思ひ止らせたといふ話があつた。面白い※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話として茲に記す。
 其の上に又「紅雀」の人々は自稱して江戸ッ子がる、よくある一派の所謂藝術家である。主人の青年の口をかりて出る樂天的な江戸がりに耳を傾けると、世に謂ふ所の江戸ッ子の最も惡い方面ばかりを、最もいゝ性質として、作者は描いてゐるかのやうに推察さ
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