いたが、それは役者好きの久保田氏の事だから、役者の生活を描いた小説をほめるのか、でなければ久保田氏は岡田夫人が贔負なのでほめるのだと、たかをくゝつて讀まなかつた。雜誌や新聞に出た夫人の作品は隨分澤山讀んだ筈だけれど、あんまり感心しなかつたと見えて、殆どひとつとして記憶に殘つてゐるものも無い。
 それなのに今度「八千代集」を讀んで、かなり面白く思ひ、集中の多くの作品は大概二度三度繰返した。夫人からその集を頂いた時、自分は發熱して病牀にあつた。なぐさまぬ心が大層なぐさめられた。本を頂いた禮状にかへて、自分は主として自分の好惡から出た、讀後の感想を、聊か引延して茲に記し度いと思ふ。
 序にかへた「鳥のなげき」といふ詩――詩と呼ぶ外に何か適當で、且もう少し安つぽい輕蔑した言葉があれば、喜んでいひかへる――を先づ讀んで不愉快な氣持がした。自分の推察が間違つてゐたら謝る他は無いが、想ふに此の詩によつて、作者は自分の境遇を、暗にうたひ嘆いたのであらう。序にかへてと斷つてゐるのをみても、少くとも作者の一時代の心状を現したものと見て差支へ無いやうに思ふ。無理解の周圍の中に生活する事は、吾々にとつて最も悲しい事であるが、「鳥のなげき」の浮《うは》ついた氣障《きざ》ないひあらはしは、その悲しみを賣物にしてゐるやうな推察を起させる。その點に於て自分は、此の「鳥のなげき」にかへて、どんな序文でもいゝから別《ほか》のものであつてくれゝばよかつたと思ふ。
「八千代集」中、自分が一番面白いと思つたのは、卷頭の「紅雀」である。茲に面白いといふのは、それが藝術品として勝れてゐるといふ意味では無い。自分をして種々の事を考へさせた點を指すのである。若しも一の作品に覘ひどころといふものがあれば――内容といふ廣い意味の言葉を用ゐるよりも、稍々狹義で且聊か不純な意味を持つ覘ひどころといふ言葉を特に用ゐる――此の作品は、その覘ひどころに於て極めて勝れたものであると同時に、それを一篇の藝術品として形造る形式に於ては、最も拙劣であつた。
 一人の青年は、死なばもろともにと誓つた從妹に死に遲れ、死なう死なうと思ひながら生きながらへてゐるうちに、何時しか他の女に戀してしまふ。けれども死んだ從妹との誓に對する良心の惱みから、今戀ふる女にはその戀をなか/\うちあけかねたが、遂にそれをうちあけると、女も亦女自身、或他の人に對し
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