貝殼追放
新聞記者を憎むの記
水上瀧太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)情愛《なさけ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)寫眞丈|撮《うつ》させてくれ

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(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り、

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)幾度も/\
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 大正五年秋十月。
 八月の中旬に英京倫敦を出た吾々の船は、南亞弗利加の喜望峯を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り、印度洋を越えて、二ヶ月の愉快な航海の終りに、日本晴といふ言葉が最も適確にその色彩と心持とを云ひ現す眞青な空を仰いで、靜な海を船そのものも嬉しさうに進んで行く。左舷には近々と故郷の山々が懷を開いて迎へてゐる。自分は曉から甲板に出て、生れた國の日光を浴びながら、足掛け五年の間海外留學の爲に遠ざかつた父母の家を明瞭に想ひ浮べて欣喜した。
 勿論自分は後にして來た亞米利加、英吉利、佛蘭西に樂しく過した春秋を囘顧して、恐らくは二度とは行かれないそれらの國に、強い悔恨と執着を殘したことは事實であつた。けれども、過ぎ去つた日よりも來るべき日は、より強く自分の心を捕へてゐた。常に晴れわたる五月の青空の心を持ち、唇を噛む事を知らずに、温い人の情愛《なさけ》に取圍まれて暮す世界を描いてゐた。而してその光明と希望に滿ちた世界を、形に現したのが目前の朝日の中に聳ゆる故國の山河であると思つた。
 船はもう神戸に近く、陸上の人家も人も近々と目に迫つて來た。昨夜受取つた無線電信によると、九州から遙々姉が出迎ひに來てくれる筈である。東京では父も母も弟も妹も、九十に近い祖母も待暮してゐるに違ひない。その人々にも今夜の夜行に乘れば明日の朝は逢へるのである。日本人には珍しい、狡猾卑劣な表情を持つてゐない公明正大な父の顏、憎惡輕侮の表情を知らない温情の象徴のやうな母の顏が、瞭然と目の前に並んで浮んだ。常に何等か自分の心を打込む對象が無くては生きてゐる甲斐が無いと思ふ自分にとつて、自分程立派な兩親を持つ者は世界に無いと思ふ信念に心のときめく時程純良な歡喜は無い。その父母の家に明日から安らかに眠る事が出來るのだ。幾度も/\甲板を往來《ゆきき》して足も心も踊るやうに思はれた。
 午前九時、船は遂に神戸港内に最後の碇を下した。船の※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りに集つて來る小蒸汽船の上に姉と姉の夫と、吾々の家の知己某氏夫妻が乘つてゐて遠くから半巾《ハンケチ》を振りながらやつて來た。約三年間音信不通になつてゐた梶原可吉氏も來てくれた。久々ぶりの挨拶を濟してから、此の二月《ふたつき》の間、寒い夜、暑い夜を過して來た狹い船室にみんなを導いて、心置き無い話をし始めた。
 其處へ給仕《ボオイ》が、二枚の名刺を持つて面會人のある事を告げに來た。大阪朝日新聞と大阪毎日新聞の記者である。勿論自分は面會を斷るつもりだつた。折角親しい人々と積る話をしてゐるところへ、見も知らぬ他人の、殊に新聞記者が割込んで、材料《たね》取りの目的で、歐洲の近状如何などといふ取とめも無い大きな質問をされては堪らないと思つた。然し自分が給仕《ボオイ》に斷るやうに頼まうと思つた時は、既に二人の新聞記者が船室の戸口から無遠慮に室内を覗き込んでゐた。二人とも膝の拔けた紺の背廣を着て、一言一行極端に粗野な紳士であつた。勿論吾々の樂しき談笑は、此の二人の侵入者の爲に中斷されてしまつた。彼等は是非話を承り度いと、殆ど乞食の如く自分の前後に立ふさがる。
 豫て神戸横濱の埠頭には此種の人々がゐて、所謂新歸朝者を惱ますとは聞いてゐたが、それは知名の人に限られた迷惑で、自分の如きは大丈夫そんなわづらひはないと思つてゐたので、同船の客の中に南洋視察に行つた官立の大學の教授のゐる事を告げて逃げようとした。けれども彼等は承知しない。五分でも十分でもいゝから自分の話を聞き度いと言ひ張る。話は無い、話し度い事なんか何にも無いと云ふと、そんなら寫眞丈|撮《うつ》させてくれと云ひ出した。
 これは一層自分には意外な請求だつた。誰人も名さへ知らない一書生の寫眞を新聞に掲げて如何《どう》するのだらう、冗談では無いと思つて斷つた。すると傍の姉夫婦が口を出して、寫眞を撮して貰ふかはりに談話の方は許して頂いては如何だと口を入れた。自分も之に同意した。談話より時間の短い丈でも寫眞の方が樂だし、且は此の粗野なる二紳士を一刻も早く退散させ度いと願つたからである。其處で自分は甲板に出た。梶原氏が附添になつて來てくれた。
 ちやんと用意して待つてゐた各新聞社の寫眞係りが、籐椅子を据ゑ、いかにも美術的の趣向だといふやうに浮袋を側に立てかけて、扨て自分を腰かけさせた。
 馬鹿々々しい事だと思つた時は、もう寫眞は撮つてゐた。それでおしまひだと思つて立上らうとすると、新聞記者は最初の約束を無視して、是非とも話をしてくれと迫つて來た。約束が違ふではないかと詰《なじ》つても、平氣で、値うちの無いお低頭《じぎ》を安賣りするばかりである。しまひには一分でも二分でもいゝと、縁日商人のやうな事を云ひ出した。それでは五分丈約束するから、その五分間に質問してくれと云つて、自分はかくしから時計を出して掌に置いた。
 二人の中のどつちが朝日の記者で、どつちが毎日の記者だつたか忘れてしまつた。後日の爲に名刺丈は取つて置いたから机の抽出でも探せば姓名は判明するが、それは他日に讓らう。兎に角此の二人は、他人の一身上に重大な關係を惹《ひき》起すやうな記事を捏造する憎むべき新聞記者であつた。
 五分は瞬間に過ぎた。時計の針が五分※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る間に自分が質問された質問と、答えた返答は左の如きものであつた。
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第一の問。貴下は外國では何を勉強して來ました。經濟ですか。
第一の答。私は雜學問をして來たので、何といふ一科の專門はありません。但し學校では經濟科の講義を聽講しました。
第二の問。文學の方はやりませんでしたか。
第二の答。私は學問として文學を修めた事は、日本にゐた時も外國にゐた時も、全くありません。
第三の問。今後職業を擇ぶに就ては保險事業をお擇びですか、又は慶應義塾の文科で教鞭をおとりになりますか。
第三の答。私の父は保險會社に勤めてゐますが、それも家業といふのではなく株式會社の事ですから息子も必ずその仕事をするといふ事はありません。慶應義塾になんか行つたつて教へる學問がありません。
第四の問。貴下の就職問題に就ての御尊父の御意見は。
第四の答。父は私の選擇に任せるでせう。
第五の問。外國の文藝上の新運動について何か話して下さい。
第五の答。別に新運動なんてものは無いでせう。日本の方がその點では新しいでせう。
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 恰も五分たつたので自分は最後の一句を冗談にして立上らうとした。するとたつたもう一つ質問し度いと云つて引止められた。
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第六の問。今後も創作を發表しますか。
第六の答。氣が向けばするでせうが、兎に角自分なんか駄目です。以前書いたものなんか考へても冷汗です。
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 傍から梶原氏が、あれは既に作者自身が葬つたものであると、自分の小説集「心づくし」の序文を引いて説明してくれた。
 右の如く簡短な質問に對する簡短な返答で苦痛の五分が過ぎた時、自分は後には何も氣がかりな事の殘つてゐない爽快な心持で姉や知人の群に歸つた。梶原氏は、自分の新聞記者に對する應對が意外に練れてゐると云つて稱讚し、これを海外留學の賜《たまもの》とする口吻をもらした。君はなかなかうまいなあ、と云つて彼は自分の肩を叩き、自分も、うまいだらう、と云つて笑つた。
 船の人々に別れを告げ、上陸してからは先づ湯にでも入《はい》つて、ゆつくり食事でもしたらよからうといふ人々の意見に任せて、神戸の町の山手の或料理屋につれて行かれた。姉夫婦は今夜大阪まで、梶原氏は京都まで同行しようと云つてくれた。
 事毎に新鮮な印象を受ける久々の故郷は、自分を若々しくした。姉は自分をつくづく見て、何時《いつ》迄たつても小僧々々してゐると云つて笑つた。
 樂しい食事の後で、自分は姉夫婦と話しながら夕方迄その家に寢轉んでゐた。新聞記者の事なんか全然《すつかり》忘れてゐた。
 三宮驛から、夕暮汽車に乘る時に、何氣なく大阪毎日新聞の夕刊を買つた。その二面に麗々《れい/\》と自分の寫眞が出てゐて「文學か保險か」と大きな標題《みだし》の横に「三田派の青年文士水上瀧太郎氏歸る」と小標題《こみだし》を振つて、十七字詰三十八行の記事が出てゐた。その中に書いてある事は自分が想像もしなかつた意外千萬なもので、殊に自分を驚かしたのは文中所謂青年文士の談話として、自分が廢嫡されるかどうかといふ問題を自《みづから》論じてゐる事であつた。
 今此處にその長々しい出たらめの新聞記事を掲げて、一々指摘してもいゝけれど、第一の問題たる廢嫡云々が、自分の如き我家の四男に生れたものにとつて、如何《どう》して起るかと反問する丈でも充分その記事の根據の無い事を證明する事が出來ると思ふ。自分には尚二人の兄が現存して居る。その中の一人は既に分家して一家の主人になつてゐるけれど、當然我家を相續すべき長兄を差措いて、どうして自分が廢嫡される資格があらう。自分はこれを廢嫡される權利と云はう。その廢嫡される權利を獲得するには、先づ我家の嫡男なる長兄が廢嫡されてゐなければならない。
 あまりの事のをかしさに自分は抱腹して、その新聞を梶原氏及び姉夫婦に見せた。
 何處からどういふ關係で、自分に廢嫡問題なるものを結び付けたかは、その時はあまりの馬鹿々々しさに存外氣にもかけなかつた。自分はたゞその記事の、今朝甲板上の五分間に取交した問答に比べて、あまり手際のいゝ嘘であるのを憤つた。しかし故意《わざ》と機嫌よく、些末な記事の誤りのみを人々に指摘して笑つた。
 第一にをかしかつたのは「氏は黒い頭髮を中央から劃然《くつきり》と左右に分け紺セルの背廣服を着けたり」と書いてゐるが、自分は曾て頭髮を中央から分けた事は一度もない。その日も中央から分けてゐなかつた事は、該記事の前に掲げた寫眞でもわかるのであつた。「劃然と分け」といふのも事實相違で、自分は人々に自分の頭を指さし示して笑つた。日本風の油でかためて櫛の目を劃然と入れた分け方を嫌つて、自分は油無しのばさばさの髮を、故意《わざ》と女持の大きな櫛で分けてゐる。「紺セルの背廣服を着けたり」とあるが、自分はその日黒羅紗の服を着てゐた。
 記者は先づ自分と父との間に職業問題に就き「意志の疎隔を生じ居れりとの風説」を糺したと云つてゐるが、彼は自分にむかつて、そんな質問をした事は無い。自分は父の寵兒ではあつても父との間に意志の疎隔などを生じてはゐなかつた。しかし狡猾なる記者は、その失禮な質問に對して、自分が平氣で返答をしてゐるやうに捏造した。「併し私の趣味が既に文學にあるとすれば保險業者として私が父の如く成功するや否やは疑問です」と洒々として新歸朝の青年文士は述べてゐる。
 幸か不幸か自分は其の後某保險會社の一使用人として月給生活をする事になつた。自分と雖も會社に於て、出世をするのはしないよりも結構である。それが「成功するや否やは疑問です」などゝふてくされた事を云つてゐると思はれるのは[#「思はれるのは」は底本では「思はれのは」]、第一出世の妨げであり、同僚諸氏に對しても甚だ心苦しい次第である。
 次に上述の廢嫡問題が出て、その廢嫡を事實にしようと運動してゐるのは「三田文學」の連中で、青年文士はその運動者に對して「私はその好意を感謝するものです」と云つてゐるのである。
 想ふに此の記事の筆者は極めて想像の豐富な
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