人であらうと思ふ。第一文章がうまい上に、知らない人が讀むと如何にも眞實《ほんと》らしく思はれる程無理が無く運んでゐて、此種の記事にはつきものの誇張を避けたところなどは、嘘詐《うそいつはり》の記事では黒人《くろうと》に違ひない。
殊に最後へ持つて來て「『父の業を繼いで保險業者になるか友人の盡力によつて文學者になるかそれは歸京の上でなければ分らず未だ未だ若い身空ですからね、一向決心がつきません、ハハハハハ』と語り終つて微笑せり」といふ一文で結んだところは、全然自分の會話の調子とは別であるが、知らない人には面目躍如たりだらうと思はれる。若しこれが他人の身の上に起つた事だつたら、自分も此の記事を信じたに違ひない。自分は此の如き達筆な記者を有する大阪毎日新聞の商賣繁盛を疑はない。
自分はいかにもをかしな話だといふやうにわざと平氣な顏をして人々にその記事を見せたが、梶原氏も姉夫婦も、ひどく眞面目な顏をして自分を見つめてゐるのであつた。
汽車が大阪に着くと姉夫婦は其處で下りて、自分は梶原氏と二人で殘つた。さうして京都迄の小《こ》一時間に所謂水上瀧太郎廢嫡問題なるものの由來を同氏によつて傳へられた。
此の無責任極まる記事は始め東京朝日新聞に出たのださうだ。憎む可き朝日新聞記者の一人は、我家を訪ひ、父に面會を求めて、その談話と共に、無理に借りて行つた自分の寫眞とを並べ掲げて世人の好奇心を迎へたのださうだ。
自分はその朝日の記事を知らない。しかし元來自分が廢嫡の權利を持つてゐない限り問題となる可き事柄で無いから、我が父の談話といふのも勿論恥を知らぬ記者の捏造したものに違ひない。けれども、その記事を讀む人間の數を思ふ時、自分は平然としてゐられなかつた。
殊に自分を怒らしたのは、その朝日新聞の下等なる記者が、老年病後の父に對して臆面も無く面會を求め、人の親の心を痛める事を構へて、之をうら問うたといふ一事である。自分の歸朝期日の豫定より早くなつたのも、父の健康が兎角勝れず、近くは他家の祝宴に招かれた席上昏倒したといふ憂ふ可き事の爲であつた。物質的に酬はれる事の極めて薄かつたにも拘らず、日本の實業家には類の無い、責任感の強い父が一生を捧げた事業から退隱した時、最も父を慰めるものは吾々子等の成長であるに違ひない。その子等の一人の、長らく膝下にゐなかつた者が、幾年ぶりで歸つて來るといふ矢先に、不祥なる噂を捏造吹聽され、天下に之を流布すべき新聞紙の記事に迄されたといふ事は、親として心痛き事であると同時に、世の親に對して、如何にも無禮暴虐である。彼をおもひ之をおもふ時、自分は心底《しんそこ》から激怒した。
京都で梶原氏に別れると直ぐに手帖を取出して、先づ大阪毎日新聞に宛て、夕刊記載の記事の捏造である事、その記事を取消すべき事、その捏造を敢てしたる記者を罰すべき事を書送るつもりで草案を書き始めた。先づ目に觸れたものから、溯つて朝日の記事一讀の後は、それにも一文を草して送り詰《なじ》らうと思つたのである。
自分が久しぶりで歸つた故郷の第一日は、かくて不愉快なものになり了《をは》つた。新聞社へ送る難詰文を書き終り、手帳をとぢて寢臺に入つても、安らかに眠る事は出來なかつた。
翌朝、愈々東京へ近づいて行く事を痛切に思はせる舊知の景色が、窓近く日光に輝いてゐるのを見た時、自分は再び爽かな心地で父母の家にかへりゆく身を限り無く喜んだ。口漱ぎ、顏を洗ひ、髯を剃つて、一層晴々した心持になつて食堂に入つて行つた。
何處にも空いた食卓は無く、食卓があれば必ず知らない人がゐた。つかつかと進んだのが立|停《どま》つて見渡して、駄目だと思つて引返さうとすると、一隅の卓にゐた若い紳士が自分を呼び止めて、その卓に差向ひではどうだと云つてくれた。自分は喜んで會釋して席に着いた。
給仕に食品の注文をして、手持無沙汰でゐると、既に最後の珈琲迄濟んだその紳士は、いきなり自分に向つて話しかけた。貴方は今朝の新聞に出てゐる方ではありませんかと、訊ねるのである。自分は驚いて彼の顏を見た。紳士は、かくしから一葉の新聞を出して自分に見せた。大阪朝日新聞である。
「文壇は日本の方が」といふ變な題が大きな活字で組んであつて、傍に==ズツト新らしい==と註が入つてゐる。此の題を見て自分は肌に粟を生じた。世の中に洒落の解らない人間程怖しいものは無いと云つた人があるが、此の記事の筆者の如き最も洒落の解らぬ人間であらう。自分は記者兩人の愚問を避ける爲に、文藝上の新運動如何の問に對して新しいのは日本だと答へたが、その時の自分の語氣から、唯それが其場限りの冗談に等しいものだつた事は、誰にもわかる筈であつた。馬鹿に會つてはかなはないと思つた。
けれども更に考へてみると、此の記者も亦記事捏造の手腕に於ては、大阪毎日の記者に勝るとも劣らない黒人《くろうと》藝である。或は自分の言葉は、勿論まともに取る可きものとは思はなかつたが、一寸標題として人目を引き易い爲、わざとそのまゝ載せたのかもしれない。怖ろしいのは、洒落の解らない奴よりも、責任感の無い奴が一層だと思はざるを得なかつた。
此の記事によると、初めて自分の廢嫡問題なるものを捏造掲載した時の標題は「廢嫡されても文學を」といふのであつた。淺薄な流行唄《はやりうた》の文句のやうなこんな標題で、ありもしない惡名を書き立てられたのかと思ふと、自分の心は暗くなつた。
あまりにくだくだしい捏造指摘は自分ながら馬鹿々々しいから止めるが、日本新聞界の兩大關と自稱する毎日朝日の記者が、一人の口から出た事を、全然違つて聽取つた事實を、此の二つの記事を對照して見る人はあやしまなければならない筈だ。二人とも全然自分勝手な腹案を當初から持つてゐて、記事の大部分は、自分に面會する前に原稿として出來上つてゐたのだらうと思ふ。たゞ彼等が一致した事は、自分の黒い衣服を紺背廣だと誤り記してゐる一事ばかりであつた。毎日記者は「ハハハハハと語り終つて微笑せり」と結んだが、朝日記者は「苦し氣に語つて人々と共に上陸した」と記してゐる。人を馬鹿にした話である。二人揃つてやつて來て、二人で質問しながら、お互によくも平氣で白々しい出たらめを書いてゐられるものである。馬鹿、馬鹿、馬鹿ッ。自分は思はず叫ばうとして、目の前の紳士の存在を思つて、苦笑した。
どうも新聞記者といふものは嘘を書くのが職業ですから困ります、と云ひながら、その新聞を持主に返へした。それでも貴方のお話を伺つて書いたのでせう、と若い紳士はいかにも好奇心に光る目で自分を見ながらきき出した。自分は不愉快な氣持で食事も咽喉《のど》を通らなくなつたが、簡短に神戸港内の船中で二人の記者に迫られて四五の問答を繰返したのが、こんな長い捏造記事になつたのだと説明した。さうして肉刀《ナイフ》をとり、肉叉《フオク》をとつて話を逃れようとした。すると相手は給仕を呼んで、菓物とキユラソオを命じ、卷煙草に火をつけて落ついて話し出した。食後のいい話材を得た滿足に、紫の煙は鼻の孔からゆるやかに二筋上つた。
自分が如何に説明しても、彼は矢張り新聞の記事を信じるらしく、少くとも廢嫡問題の將來に最も興味を持つ心持をかくしてもかくし切れないのであつた。兎に角才能のある方がそれを捨てるといふのは惜しい事ですから、などと一人合點で餘計な事をいふのである。自分は苦笑しながら食事を終つた。
東京に着いて、母や弟妹や、親類友だちに久々で逢ふ時、自分はもう悄氣《しよげ》てゐた。誰しも自分を異常なる出來事の主人公と見做してゐるらしく思はれてしかたがなくなつた。あれ程心を躍らして待つた父母との對面にも、自分は合はせる顏が無いやうに思はれた。自分が東京に着く前に既に關西電話で傳へられた、毎日朝日と同じやうな記事が都下の多くの新聞に出てゐた。
その日から我家の電話は新聞社からの電話で忙しく鳴つた。玄關に名刺を出すごろつきに等しい新聞記者を一人々々なぐり倒し度くいきまく自分と、それらの者の後日の復讐を恐れる家人との心は共に平靜を失つてしまつた。老年の父母が、自分が憤りの餘り、更に一層彼等から意地の惡い手段を以て苦しめられる事を氣づかふのを見てゐると、遂々《とう/\》自分の方が弱くなつてしまつた。新聞社へ宛て書いた難詰文も破いて捨てなければならなかつた。
あまりに多數のごろつきの玄關に來るのを歎く母の乞を容れて、中の一新聞を擇んで面談し、事實を語る事を承知して、折柄電話で會見を申込んで來たタイムス社の記者と稱する者に丈逢ふ事に決めた。
二人のタイムス記者と稱する者が大きな風呂敷包を持つてやつて來た。自分は勿論ヂャパン・タイムスと信じてゐたので、そのつもりで話をしてゐた。彼等は巧妙に調子を合はせてゐる。自分は教はりはしなかつたが、慶應義塾の高橋先生は今でもタイムスに筆を執つて居られるか、といふ問にも、然りと返事をしたのである。さうして約卅分は過ぎた。すると二人の中の一人は俄に話をそらして、實は今日は別にお願ひがあると云ひながら、その持參の風呂敷を解いて、「和漢名畫集」といふものを取出し、それを買つてくれと云ひ出した。創立後幾年目とかの紀念出版だといふのである。自分は勿論斷つたが、それならお宅へお買上を願ふから取次いでくれといふので、爲方なく奧へ持つて行つた。母は買つてやつて早く歸した方が無事だと云ふのである。馬鹿々々しい、こんな下らない物をとは思つたが、母の心配してゐる樣子を見ると心弱くなつた。とう/\自分はなけなしの小遣から「和漢名畫集」上下二册金四拾圓也を支拂はされた。
ところが後日聞くところによると、このタイムス社は、ヂャパン・タイムス社ではなく、日比谷邊りに巣をくつてゐる人困らせの代物であつた。自分は自分の人の好《よ》さをつくづくなさけなく思ふと同時に、かゝる種類の人間の跋扈する世の中を憎んだ。
新聞雜誌の噂話に廢嫡問題の出る事は尚しきりに續いた。これよりさき大正二年の春にも、憎むべき都新聞は三日にわたつて「父と子」なる題下に、驚くべき捏造記事を掲げた事があつた。その記事の記者は自分が曾て書いた小説を、すべて作者の過去半生に結びつけて、ありもしない戀愛談迄捏造した。厚顏にしてぼんくらなる記者は、その記事の最後に、「彼は今英國のケムブリッヂにゐる」と書いて、御叮嚀にも劍橋大學の寫眞を掲げた。當時自分は北米合衆國マサチュセツ州のケムブリッヂといふ町にゐたのである。
その都新聞の切拔を友だちの一人が送つてくれた時、自分は隨分怒つた。しかし考へてみると、あと形も無い戀愛談も、あと形もない廢嫡問題よりは、少くとも愛嬌がある丈ましであつた。自分は自分が如何に此の下等愚劣なる賤民、即ち新聞記者の爲に、其後も屡々不快な思ひをさせられたかを述べる前に、ついでに出たらめの愛嬌話を添へて僅かに苦笑しようと思ふ。
大正五年十月二十七日發行の保險銀行時報といふ新聞には、二つの異なる記事として自分の事を材料とした捏造記事が出てゐる。記者はさも消息通らしい筆つきで書いてゐるのが寧ろ氣の毒な程愛嬌であるけれども、書かれた者にとつては、矢張り憎む可き記事であつた。
第一は「保險ロマンス」といふ題下に「此父にして此子」といふ標題で、例の廢嫡云々が噂に上つてゐる。その記事によると或人が例の廢嫡問題を、我父に質問したといふのである。如何に父の齡は傾いたと雖も自分の四男を嫡男だと思ひ違へるわけが無い。然るに此の記事によると、父も亦その問題を事實起り得るものとして返答をしてゐるのである。記事の捏造である事は敢て論ずる迄もあるまい。
もう一つは「閑話茶談」といふ題で、身に覺えの無い艶種である。「三田派の新しい文士に水上瀧太郎といふのがある。それにカフヱ・プランタンの(春の女)と(秋の女)が競爭でラヴしてゐたことなどは文壇では夙に誰も知りつくしてゐたが一般の世間はまだ餘り知つてゐない」といふ冒頭で、同じく廢嫡問題に言及し、最後に「それにつけても餘計なことだが、彼《あ》の派手な華やかな明るい感じを持つた(
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