嫡される權利と云はう。その廢嫡される權利を獲得するには、先づ我家の嫡男なる長兄が廢嫡されてゐなければならない。
 あまりの事のをかしさに自分は抱腹して、その新聞を梶原氏及び姉夫婦に見せた。
 何處からどういふ關係で、自分に廢嫡問題なるものを結び付けたかは、その時はあまりの馬鹿々々しさに存外氣にもかけなかつた。自分はたゞその記事の、今朝甲板上の五分間に取交した問答に比べて、あまり手際のいゝ嘘であるのを憤つた。しかし故意《わざ》と機嫌よく、些末な記事の誤りのみを人々に指摘して笑つた。
 第一にをかしかつたのは「氏は黒い頭髮を中央から劃然《くつきり》と左右に分け紺セルの背廣服を着けたり」と書いてゐるが、自分は曾て頭髮を中央から分けた事は一度もない。その日も中央から分けてゐなかつた事は、該記事の前に掲げた寫眞でもわかるのであつた。「劃然と分け」といふのも事實相違で、自分は人々に自分の頭を指さし示して笑つた。日本風の油でかためて櫛の目を劃然と入れた分け方を嫌つて、自分は油無しのばさばさの髮を、故意《わざ》と女持の大きな櫛で分けてゐる。「紺セルの背廣服を着けたり」とあるが、自分はその日黒羅紗の服を着てゐた。
 記者は先づ自分と父との間に職業問題に就き「意志の疎隔を生じ居れりとの風説」を糺したと云つてゐるが、彼は自分にむかつて、そんな質問をした事は無い。自分は父の寵兒ではあつても父との間に意志の疎隔などを生じてはゐなかつた。しかし狡猾なる記者は、その失禮な質問に對して、自分が平氣で返答をしてゐるやうに捏造した。「併し私の趣味が既に文學にあるとすれば保險業者として私が父の如く成功するや否やは疑問です」と洒々として新歸朝の青年文士は述べてゐる。
 幸か不幸か自分は其の後某保險會社の一使用人として月給生活をする事になつた。自分と雖も會社に於て、出世をするのはしないよりも結構である。それが「成功するや否やは疑問です」などゝふてくされた事を云つてゐると思はれるのは[#「思はれるのは」は底本では「思はれのは」]、第一出世の妨げであり、同僚諸氏に對しても甚だ心苦しい次第である。
 次に上述の廢嫡問題が出て、その廢嫡を事實にしようと運動してゐるのは「三田文學」の連中で、青年文士はその運動者に對して「私はその好意を感謝するものです」と云つてゐるのである。
 想ふに此の記事の筆者は極めて想像の豐富な人であらうと思ふ。第一文章がうまい上に、知らない人が讀むと如何にも眞實《ほんと》らしく思はれる程無理が無く運んでゐて、此種の記事にはつきものの誇張を避けたところなどは、嘘詐《うそいつはり》の記事では黒人《くろうと》に違ひない。
 殊に最後へ持つて來て「『父の業を繼いで保險業者になるか友人の盡力によつて文學者になるかそれは歸京の上でなければ分らず未だ未だ若い身空ですからね、一向決心がつきません、ハハハハハ』と語り終つて微笑せり」といふ一文で結んだところは、全然自分の會話の調子とは別であるが、知らない人には面目躍如たりだらうと思はれる。若しこれが他人の身の上に起つた事だつたら、自分も此の記事を信じたに違ひない。自分は此の如き達筆な記者を有する大阪毎日新聞の商賣繁盛を疑はない。
 自分はいかにもをかしな話だといふやうにわざと平氣な顏をして人々にその記事を見せたが、梶原氏も姉夫婦も、ひどく眞面目な顏をして自分を見つめてゐるのであつた。
 汽車が大阪に着くと姉夫婦は其處で下りて、自分は梶原氏と二人で殘つた。さうして京都迄の小《こ》一時間に所謂水上瀧太郎廢嫡問題なるものの由來を同氏によつて傳へられた。
 此の無責任極まる記事は始め東京朝日新聞に出たのださうだ。憎む可き朝日新聞記者の一人は、我家を訪ひ、父に面會を求めて、その談話と共に、無理に借りて行つた自分の寫眞とを並べ掲げて世人の好奇心を迎へたのださうだ。
 自分はその朝日の記事を知らない。しかし元來自分が廢嫡の權利を持つてゐない限り問題となる可き事柄で無いから、我が父の談話といふのも勿論恥を知らぬ記者の捏造したものに違ひない。けれども、その記事を讀む人間の數を思ふ時、自分は平然としてゐられなかつた。
 殊に自分を怒らしたのは、その朝日新聞の下等なる記者が、老年病後の父に對して臆面も無く面會を求め、人の親の心を痛める事を構へて、之をうら問うたといふ一事である。自分の歸朝期日の豫定より早くなつたのも、父の健康が兎角勝れず、近くは他家の祝宴に招かれた席上昏倒したといふ憂ふ可き事の爲であつた。物質的に酬はれる事の極めて薄かつたにも拘らず、日本の實業家には類の無い、責任感の強い父が一生を捧げた事業から退隱した時、最も父を慰めるものは吾々子等の成長であるに違ひない。その子等の一人の、長らく膝下にゐなかつた者が、幾年ぶりで歸つて來るといふ
前へ 次へ
全7ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水上 滝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング