矢先に、不祥なる噂を捏造吹聽され、天下に之を流布すべき新聞紙の記事に迄されたといふ事は、親として心痛き事であると同時に、世の親に對して、如何にも無禮暴虐である。彼をおもひ之をおもふ時、自分は心底《しんそこ》から激怒した。
京都で梶原氏に別れると直ぐに手帖を取出して、先づ大阪毎日新聞に宛て、夕刊記載の記事の捏造である事、その記事を取消すべき事、その捏造を敢てしたる記者を罰すべき事を書送るつもりで草案を書き始めた。先づ目に觸れたものから、溯つて朝日の記事一讀の後は、それにも一文を草して送り詰《なじ》らうと思つたのである。
自分が久しぶりで歸つた故郷の第一日は、かくて不愉快なものになり了《をは》つた。新聞社へ送る難詰文を書き終り、手帳をとぢて寢臺に入つても、安らかに眠る事は出來なかつた。
翌朝、愈々東京へ近づいて行く事を痛切に思はせる舊知の景色が、窓近く日光に輝いてゐるのを見た時、自分は再び爽かな心地で父母の家にかへりゆく身を限り無く喜んだ。口漱ぎ、顏を洗ひ、髯を剃つて、一層晴々した心持になつて食堂に入つて行つた。
何處にも空いた食卓は無く、食卓があれば必ず知らない人がゐた。つかつかと進んだのが立|停《どま》つて見渡して、駄目だと思つて引返さうとすると、一隅の卓にゐた若い紳士が自分を呼び止めて、その卓に差向ひではどうだと云つてくれた。自分は喜んで會釋して席に着いた。
給仕に食品の注文をして、手持無沙汰でゐると、既に最後の珈琲迄濟んだその紳士は、いきなり自分に向つて話しかけた。貴方は今朝の新聞に出てゐる方ではありませんかと、訊ねるのである。自分は驚いて彼の顏を見た。紳士は、かくしから一葉の新聞を出して自分に見せた。大阪朝日新聞である。
「文壇は日本の方が」といふ變な題が大きな活字で組んであつて、傍に==ズツト新らしい==と註が入つてゐる。此の題を見て自分は肌に粟を生じた。世の中に洒落の解らない人間程怖しいものは無いと云つた人があるが、此の記事の筆者の如き最も洒落の解らぬ人間であらう。自分は記者兩人の愚問を避ける爲に、文藝上の新運動如何の問に對して新しいのは日本だと答へたが、その時の自分の語氣から、唯それが其場限りの冗談に等しいものだつた事は、誰にもわかる筈であつた。馬鹿に會つてはかなはないと思つた。
けれども更に考へてみると、此の記者も亦記事捏造の手腕に於ては、大阪毎日の記者に勝るとも劣らない黒人《くろうと》藝である。或は自分の言葉は、勿論まともに取る可きものとは思はなかつたが、一寸標題として人目を引き易い爲、わざとそのまゝ載せたのかもしれない。怖ろしいのは、洒落の解らない奴よりも、責任感の無い奴が一層だと思はざるを得なかつた。
此の記事によると、初めて自分の廢嫡問題なるものを捏造掲載した時の標題は「廢嫡されても文學を」といふのであつた。淺薄な流行唄《はやりうた》の文句のやうなこんな標題で、ありもしない惡名を書き立てられたのかと思ふと、自分の心は暗くなつた。
あまりにくだくだしい捏造指摘は自分ながら馬鹿々々しいから止めるが、日本新聞界の兩大關と自稱する毎日朝日の記者が、一人の口から出た事を、全然違つて聽取つた事實を、此の二つの記事を對照して見る人はあやしまなければならない筈だ。二人とも全然自分勝手な腹案を當初から持つてゐて、記事の大部分は、自分に面會する前に原稿として出來上つてゐたのだらうと思ふ。たゞ彼等が一致した事は、自分の黒い衣服を紺背廣だと誤り記してゐる一事ばかりであつた。毎日記者は「ハハハハハと語り終つて微笑せり」と結んだが、朝日記者は「苦し氣に語つて人々と共に上陸した」と記してゐる。人を馬鹿にした話である。二人揃つてやつて來て、二人で質問しながら、お互によくも平氣で白々しい出たらめを書いてゐられるものである。馬鹿、馬鹿、馬鹿ッ。自分は思はず叫ばうとして、目の前の紳士の存在を思つて、苦笑した。
どうも新聞記者といふものは嘘を書くのが職業ですから困ります、と云ひながら、その新聞を持主に返へした。それでも貴方のお話を伺つて書いたのでせう、と若い紳士はいかにも好奇心に光る目で自分を見ながらきき出した。自分は不愉快な氣持で食事も咽喉《のど》を通らなくなつたが、簡短に神戸港内の船中で二人の記者に迫られて四五の問答を繰返したのが、こんな長い捏造記事になつたのだと説明した。さうして肉刀《ナイフ》をとり、肉叉《フオク》をとつて話を逃れようとした。すると相手は給仕を呼んで、菓物とキユラソオを命じ、卷煙草に火をつけて落ついて話し出した。食後のいい話材を得た滿足に、紫の煙は鼻の孔からゆるやかに二筋上つた。
自分が如何に説明しても、彼は矢張り新聞の記事を信じるらしく、少くとも廢嫡問題の將來に最も興味を持つ心持をかくしてもかくし切れ
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