年の年月の歐米滯在中彼が學んだ事は何であるかといふと、それは人間を愛する事と人間を憎む事である。最もはげしい愛憎のうちに現るゝ人間性を熱愛する意志と感情の育成に他ならない。彼は不幸にして他人を愛する事が出來なかつた。そのかはりにその父母兄弟姉妹を、自分自身よりももつと愛する嬉しい心をいだいて歸朝した。それだけの人間である。
自分は自分を第三者と見て、上述の如き記述をした。しかしその眞の自分を知つてゐる者は自分以外には數人の友人の外に誰もない事實を思ふと、流石に寒い心に堪へ難くなる。一度東京朝日新聞の奸譎邪惡憎む可き記者の爲に誤り傳へられてから、自分の目の前に開かれる世界は暗くなつた。或學者は人間の愛を説いて、愛とは理解に他ならないといふ。それを愛の一部だとしか考へない自分も、無理解の世界、誤解の世界には生きてゐられない。見る人逢ふ人のすべてが、新聞によつて與へられた先入觀念で自分を見る世界が、自分にとつてどんなものであるか、恐らくは人をおとしいれる事を職とする憎む可き程淺薄低級なる新聞記者には理解出來まい。
自分を知らない人で、朝日その他の新聞の捏造記事を見た人は、殆どすべて彼の記事を眞實を語るものと思つたに違ひない。友だちの中にも、知己の中にも、彼の記事を信じた人がある。自分は屡々初見の人に紹介される時「例の廢嫡問題の」といふ聞くも忌《いま》はしい言葉を自分の姓名の上に附加された。打消しても打消しても、人は先入の誤解を忘れなかつた、甚しいのになると、自分に兄のある事を熟知してゐながら、尚且廢嫡問題が自分の身に起らんとしてゐるのだと考へる粗忽な人も多かつた。否その粗忽な人ばかりだと云つてもいい程、人々は憎む可き記者の捏造の世界に引入れられてしまつた。たとへその記事を全部は信じなかつた人も、多少の疑念をいだいて自分を見るやうになつた。自分を見る世界の目はすべて比良目の目になつてしまつた。
幸にして自分は衣食に事缺かぬ有難い身の上であつたし、幸にして奉公口もあつたから、その點は無事であつたが、若しまかり間違つたら、此の如き記事によつて人は衣食の道をさへ求め難きに至る事は、想像出來ない事ではない。
幸にして自分は獨身生活を喜んでゐるから、その點は心配はなかつたが、假りに自分が配偶を探し求めてゐるとしたら、恐らくは廢嫡問題の爲に、世の中の娘持つ程の親は、二の足を踏ん
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