だに違ひない。
要するに自分は、世間の目から廢嫡問題の主人公としての他、偏見無しには見られなくなつてしまつたのだ。多數の人間の集會の席に行くと、あちらからもこちらからも、心無き人々の好奇心に輝く目《まな》ざしが自分の一身にそゝがれ、中には公然指さして私語する無禮な人間さへある。
如何に寛容な心を持ちたいと希ふ自分も、かかる世の中に身を置いては、どうしても神經の苛立つ事を止めかねた。どいつも此奴《こいつ》も癪に障ると思はないではゐられなくなる。さうして自分は一日と雖も、新聞記者を憎む事を忘れる事が出來なくなつた。
自分は決して新聞記者を、社會の木鐸だなどとは考へてゐないが、彼等が此の人間の形造る社會の出來事の報告者であるといふ職分を尊いものだと思ふのである。然るに憎む可き賤民は事實の報告を第二にして、最も挑發的な記事の捏造にのみ腐心してゐる。さうして新聞記者といふものに對して適當なる原因の無い恐怖をいだいてゐる世間の人々は、彼等に對して正當の主張をする事をさへ憚つてゐて、相手が新聞記者だから泣寢入のほかはないと、二言目には云ふのである。それをいゝ事にして強《こは》もてにもててゐる下劣なるごろつきを自分は徹頭徹尾憎み度い。同時にこれらの下劣なるごろつきの日常爲しつゝある惡行を、寧ろ奬勵してゐる新聞社主の如きも、人間社會に對する無責任の點から考へれば、等しく下劣なる賤民である。自分は單に自分自身迷惑した場合を擧げて世に訴へようとするのではない。それよりも一般の社會に惡を憎み、これに制裁を加へる事を要求鼓吹し度いのだ。
根も葉も無い捏造記事の爲に、幾多の家庭の平和を害し、幾多の人々の社會生活を不愉快にし、幾多の人の種々の幸福を奪ふ彼等の行爲を世間は何故に許して置くのか。
繰返して云ふ。自分は新聞記者を心底から憎む。馬鹿馬鹿馬鹿ッ。その面上に唾して踏み※[#「足へん+爛のつくり」、23−11]《にじ》つてやる心持で、この一文を草したのである。(大正六年十二月十七日)
[#地から1字上げ]――「三田文學」大正七年一月號
底本:「水上瀧太郎全集 九卷」岩波書店
1940(昭和15)年12月15日発行
※底本p9−12で「思はれのは」となっていたところは、1958(昭和33)年 10月25日発行の底本第2刷を参照して「思はれるのは」に直しました。
※底本は、物
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