イムス社は、ヂャパン・タイムス社ではなく、日比谷邊りに巣をくつてゐる人困らせの代物であつた。自分は自分の人の好《よ》さをつくづくなさけなく思ふと同時に、かゝる種類の人間の跋扈する世の中を憎んだ。
 新聞雜誌の噂話に廢嫡問題の出る事は尚しきりに續いた。これよりさき大正二年の春にも、憎むべき都新聞は三日にわたつて「父と子」なる題下に、驚くべき捏造記事を掲げた事があつた。その記事の記者は自分が曾て書いた小説を、すべて作者の過去半生に結びつけて、ありもしない戀愛談迄捏造した。厚顏にしてぼんくらなる記者は、その記事の最後に、「彼は今英國のケムブリッヂにゐる」と書いて、御叮嚀にも劍橋大學の寫眞を掲げた。當時自分は北米合衆國マサチュセツ州のケムブリッヂといふ町にゐたのである。
 その都新聞の切拔を友だちの一人が送つてくれた時、自分は隨分怒つた。しかし考へてみると、あと形も無い戀愛談も、あと形もない廢嫡問題よりは、少くとも愛嬌がある丈ましであつた。自分は自分が如何に此の下等愚劣なる賤民、即ち新聞記者の爲に、其後も屡々不快な思ひをさせられたかを述べる前に、ついでに出たらめの愛嬌話を添へて僅かに苦笑しようと思ふ。
 大正五年十月二十七日發行の保險銀行時報といふ新聞には、二つの異なる記事として自分の事を材料とした捏造記事が出てゐる。記者はさも消息通らしい筆つきで書いてゐるのが寧ろ氣の毒な程愛嬌であるけれども、書かれた者にとつては、矢張り憎む可き記事であつた。
 第一は「保險ロマンス」といふ題下に「此父にして此子」といふ標題で、例の廢嫡云々が噂に上つてゐる。その記事によると或人が例の廢嫡問題を、我父に質問したといふのである。如何に父の齡は傾いたと雖も自分の四男を嫡男だと思ひ違へるわけが無い。然るに此の記事によると、父も亦その問題を事實起り得るものとして返答をしてゐるのである。記事の捏造である事は敢て論ずる迄もあるまい。
 もう一つは「閑話茶談」といふ題で、身に覺えの無い艶種である。「三田派の新しい文士に水上瀧太郎といふのがある。それにカフヱ・プランタンの(春の女)と(秋の女)が競爭でラヴしてゐたことなどは文壇では夙に誰も知りつくしてゐたが一般の世間はまだ餘り知つてゐない」といふ冒頭で、同じく廢嫡問題に言及し、最後に「それにつけても餘計なことだが、彼《あ》の派手な華やかな明るい感じを持つた(
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