ても暗闘と暗闘とがひつきりなしにつづく。彼はどんなときにでも彼自らの姿を見破られないやうに、慎み深い用意を忘れることが出来ない。こんな苦しい、緊張《はりき》つた、いらだたしい生活が、幾日も幾日もつづいたとき、男は唸くやうになつて、女の膝に身をなげかけた。心の友を求めることに気がつかず、こんな女づれを相手に僅かな慰安を捜求《さがしもと》めてあるく男の惨《みじ》めさは、此意味に於て哀れなものと云はなければならない。
 今夜も松村はやはり疲労困憊の人であつた。朝、白川と会つて十時に築地のゝゝ倶楽部で東洋演芸の重役と長時間の交渉を続け、昼飯もせずに二時頃までは陰忍と焦躁の為に神経を張りつめて居た。それから皮革会社創立の計画、夜は二座敷《ふたざしき》の客をつとめてやつと放たれた身体《からだ》となつたのである。帰らなければならぬ時間となつて居たのではあるが、口には帰ると云つても、さて立ち上らうともしなかつた。
「此頃は白川さんとはちよつともお遊びにならないんですね。」女は吸付けた煙管を男にすすめた。
「うむ、せはしいからねえ。」
「でも、あちらは貴方の一番のお友達ぢやありませんか。」
「さうさねえ。」
「あたしさう思ふわ、貴方はどんなことでもあたしにお話して下さるんですけど、あたしは女でせう。あたし本統に有り難いこつたとは思つてますけれど、あたしぢやだめよ、貴方の御相談相手にや、あたしなんか何にもならないんですもの。だから貴方は白川さんを御相談相手になすつた方がいいのよ。貴方おひとりで、何もかもなさらうたつて、それや無理よ。こんなにまあつかれて……。」
 女は今までにないしんみりした気分になつて来るのを感じた。其れは男の顔には艶がない。額に皺をよせてぢつと考へこむいつもの癖がきはだつて女の目をひく。
「去年の大病から、貴方は本統にならないんですわ、以前はそれほどでもなかつたんですが、このごろはぢきにつかれるのねえ。たいぎさうにふうふう云つていらつして、それでもお客の前へ出ると、すつかり度胸をすゑちやつていらつしやるの。あたしなんぞが、どう気をもんだからつてしかたがないと思つても、やつぱり気づかひになつてくるんです。」
 男は聞くともなしに、つい女の話につりこまれて一心になつて居たのであるが、思はず、
「ふ、ふん。」と冷かに少しく笑つた。
 女を嘲けるのでもなく、その云ふことが少しも彼の心を動かさなかつたと云ふのでもなく、男は只無意識であつたのであるが、女にはさうは思へなかつた。
「貴方、きいて居て下さるの。」
「きいてるよ。」
「今夜は無心を云つてるんぢやないことよ、真剣よ。」
「真剣だ。俺も真剣になつてきいてるよ。」
「ぢやなぜ鼻であしらつたりなんぞなさるんです。あたし本統に心配でならないから云ふのよ。」
 男は妙に気がめりこんでならなかつた。皮肉らしいことでも云つて空元気《からげんき》をつけてやらうと思つた。
「お前の心配は後藤さんのこつたらう。」
 かう云つて彼は口をすうすう云はせた。唇をまげて舌で吸ひこむのが彼のくせであつた。
「なんですつて。」
 女は自分の云つてることがちつとも先方《むかう》へ通らないもどかしさと、一年も前の古い後藤の名を云ひだされた邪慳さとで、無暗に心がいきりたつた。
「何を云つていらつしやるの。あたしがどうかしたと云ふんですか、何をしました。この頃になつて私が何をしました。さあ、おつしやい。ぜひおつしやつていただきませう。」
 男は今更らしく当惑した。女がひすてりつく[#「ひすてりつく」に傍点]にいきり立つてくると、殆ど押へかかへも出来なくなることは之れまでも度度見て居たことであるから、激しい発作《ほつさ》の来ないうちに何とか云つてなだめなきやならないと思つたが、女はほんの僅かな猶予をさへ惜むかのやうにじりじりと男につめよつた。
「貴方は強情つぱりねえ。全くやせ我慢が強いのねえ。貴方は……貴方はあたしの様なやくざ女を……。あたし、やくざ……。」
 彼はもう涙でものを言ふことが出来なかつた。男の膝に半身を投げかけて、声を出して泣きくづれた。
 松村は女のするやうに任せて、ぢつと動かずに居た。そして打ち顫ふ女の房房した後髪をしげしげと見まもつて居た。
「いかにも俺は寂しい。」彼はかう思つて心に深い省察を加へて見た。売出しの少壮実業家と云はれて、俺は今若木の枝が芽を吹くやうにめきめきと世の中に延びて行く。先輩と云つても目に立つほどの人もなく、金があるからと云つて、ただそれ丈である。買被ぶられて居る彼等の信用と地位とは、遠くで見て居てこそ、素晴らしい勢力で、傑さ加減は側《そば》へも寄りつけない程にも思はれるが、段段近寄つて見ると、どれもこれも評判倒れがして居る。学問もない、見識もない、自分の事業に関する経験や智能の
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