ない、大局の見えない彼等と比べて見ては、俺はたしかに独歩《どくほ》の出来る才人《さいじん》であるとも云ひ得られる。足を斯界《しかい》に投じてまだやつと五年にしかならないのに、世間は俺を一廉の働手にしてしまつた。俺は欝然としてもう一家をなした。あんまり早い昇進である。けれども俺は寂しい。一人ぽつちだ。世間は俺が黒幕の外で振りかざして居る旗印を目標《もくへう》として、そこには俺の本陣があるかの如く思違へて殺到《さつたう》する。俺の苦しみは死守する此第一防禦線の陣地から生れた。今日迄幸に防禦線は突破されずに戦つては来たものの、俺は疲れる。休まなければならない。即ち幕の内にはひる。誰も居ない。全く誰も居ない。俺がたつた一人ゐるきりだ。俺の寂しみはこの暗黒な幕の内から生れる。誰でもいい。幕の中へはひつて来てくれ。俺は時折かうは思ふものの、もしそれが敵からの諜者《まはしもの》であつて、親切らしく慰《なぐさめ》の詞をかけながら、何の守も、何の用意もない俺の本陣の本統の状況を見きはめて行つて、世間にそれをおつぴらに云ひ散らされたときは、俺の第一防禦線は一支《ひとささへ》もなく潰《つひ》える。俺は滅多に友達を呼びいれることすらも出来ない。
彼は静に女の背《せな》に手をかけた。
「此女だけが俺の赤裸裸《せきらら》の友だ。何と云ふ情ないことであらう。」
感覚を佯《いつは》ることに忸《な》れた此女の情熱のうちに、どれだけの真実が含まれて居るのであらうか。俺は知らない。ただ此女ならばまづ心がゆるせる。たつた一人の俺の陣地に忍びこんで来て、俺の疲《つかれ》と寂寥とに僅ばかりの慰安をでも与へてくれるのは此女だけである、俺は安心して此女の腕によりかかつて眠れる。甲冑の紐をゆるめて眠ることが出来る。
「おい。」彼は背を撫でながら女を呼びおこした。女は顔を上げた。涙のあとが目のまはりをほんのりとあかく見せてゐる。
「もう帰らうよ。」男はやさしくかう云つた。
「厭《いや》。」女の声には力がこもつて居た。
「あたし今夜は帰へらないことよ。」
「ぢや、どうする。」
「とまつて行くのよ。もしおうちの具合がわるいつてなら、あしたあたしお詑びに出ててよ。」
「子供見たやうなことを云つてる。馬鹿だなあ。」
「あたし今夜はどうしても、いや。ねえ、後生だから。」
女は思ひ入つた調子でかう云つて、男の左の手を握つた。その手の甲から腕の関節にかけて、二寸程の細長い瘢痕《きずあと》のあるのをぢつと見つめた。
「ねえ旦那、これ、忘れやしないでせう。」
「お前が気がくるつたときのことだあね。」
「まさか。」女は寂しげに笑つた。
「ねえ、貴方、堪忍して下さいな。あたし何もこんなことをする積りぢやなかつたんだわ。丁度運わるく火箸があたしの手にさはつたんですもの。ひすてりい[#「ひすてりい」に傍点]になつて、無暗に貴方に食つてかかつて居たときでしたわねえ。けれどもあたし嬉しいわ。」
女は全く貞淑な、むしろ純潔な、処女が示す哀憐の様子を作つて、
「此|瘢《きず》は貴方の一生の瘢よ。そしてあたしの一生の紀念《かたみ》だわ。此瘢を見るたんびに、貴方はあたしを思出して下さるでせう。あたしが風来者《ふうらいもの》になつちやつて、満洲あたりをうろつくやうになつても、ねえ、さうでせう。」
男はつくづく女の心持を思ひやつた。女の魂がとろけて自分の頭の中へ流れこんで来るかの様に強い感激が思はれた。この女とは長い月日の間に、いろいろ複雑した感情の争を闘はした。随分数多くこの女の涙も見た。けれども今まのあたりに見るやうな、さはつたら何ものをでも燎爛《やきただら》さずには置くまいとする力の籠つた女の姿は初めてであつたのである。今まで覗いたこともなかつた人の世界の真実が、この淫《みだら》な女の涙の中からありありと男の心の眼に映つて来た。け高いと云はうか、神神しいと云はうか。この女の前には自分はいつも素裸になつて居ると思つて、何の隔心《かくしん》を置かなかつた積りであつたが、それはまだこの女の本統を見きはめた上からのことではなかつた。さうして見ると俺自身もこの女にだけはと思つて、一切の自己をさらけ出して居たと信じて居たことも、まだ本統のものではなかつたものらしい。長い記憶を辿るまでのことは無い、現在此席でも、俺は虚栄をはり痩せ我慢を通して居た。一人ぽつちの幕の中で、俺はこの女を引きいれて、限りない欝憂から逃れたいとあせつて居たときでも俺はある大切なもの、唯一なものを、まだ彼に慝《かく》して居たのではないか。そして彼にのみ彼の真実の一切を要求して居たのではなかつたか。俺は屡この女の放埒を看過《みのが》した。傍観者のやうな態度で、彼の狂態を冷かに眺めて居た。いきり立つやうなことはあつても、彼に向つたときは、多く冷静を
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