のいい日には鳶が輪をかく。一日に一度や二度は誰だつて姿のいゝ此木の枝振りを仰ぎ見ないものはない。彼も此村に生れて此村に育つた。この木は彼の樹木に関する智識の第一印象であると云つてもいい。
けれど樅はどこまでも樅であつた。樹木と人間とは全く生活の様式を異にして居る。彼女の生きて居ることと木の生きて居ることとに情の交感がある筈がない。彼女は只古い樅の木であると知つて居た。久しい親しみがあると云つても、樅の木であるとしか考へて居なかつた。否、木であると考へることにすら無智な彼女の感覚は動いて居なかつた。
今彼は自然に此老木の下に立つた。そしてもの珍らしげに、根元から幹、幹から梢を、ずうと見上げて行つた。梢は高い。空はそれよりも高い。しかし高い梢は空に達するかと思はれるほどに高い。やがて彼は根元近く体をよせて、手で樹幹にさはつて見た。人の背丈ほどの高さまでは、樹の皮は研をかけたやうに滑かにつるつるして居る。そして今夜に限つて、幹が温味をもつて居る様にも覚える。それは彼女の指先が熱して居たからであつた。こんどは彼は耳を樹幹にあてた。梢にあたる風の音が入りまじつた雑音となつて彼の鼓膜に伝はつた。大きな獣が鼻から息を吹いて居るやうにも聞き取れる。彼女は更にびつたりと体を寄せかけて、抱へる様に手を広げ胸を樹幹に押しつけた。体中の感情の全量が一時に呼び生かされた。もう此木は彼女にとつては唯の樅の木ではない。生命は勿論、血も肉も、人間がもつてゐる本能の慾望も、みんな併せ具へて居る生物であると云ふ様に情の交通を感じた。彼と彼女とはもう二つでない。二つのものが融合して一つの心にとけ合つた。幼馴染の老木であるからの親しみでなく、此の心が彼の心に流れ込んだ神会の懐《なつ》かしみである。彼女は狂へるものの様に彼女の胸を幾度も幾度も押しつけた。
樅の木はなんにも動かない。彼はたゞ立つて居る。生きて居る。彼の女の四倍の長い生活を営んで来た。此先まだ幾倍の生命を将来に維持して行くことか。それは今生きてゐるあらゆる人間に聞いたつて、誰も前途を見届けるまで命をもつて居るものはない。
ぢつとしてゐるうちに彼女の昂奮は少し静まつた。少し体を放して目新しげに梢を見上げた。木は何事の変化もなく、もとより痛苦や、不安の姿もなく、記憶し初めた三十年前からの壮大なる木振の儘、今は暗夜の空につつたつて居る。
「この木は、なんにも食はなくつても生きて居るがんだ。」
彼女は呟くやうに独語した。
「かん、かん、かん。」初三つ四つは緩く、中程は急調に、終りは又間のびた拍子で、板木《はんぎ》の音が鳴つて来た。眠に落ちつゝある村中の人の疲れた頭をつきぬけて、音波の震動は西風の吹くがまゝ、遠い東の空へ漂ひ去つた。彼女もその音を聞いた一人であつた。最も深い感銘と情趣とを刻みつけられた一人であつた。彼は消えて行く余韻の名残をも聞き洩すまいとするかの如く、ぢつとぢつと耳を澄して居た。
「さうだ。今夜お説教があるんだ。お使僧様がござらつして、親様のうちで。」
かれは昼のうちにこのことを聞いて知つて居た。もう今頃は村の人々がより集つて居る頃である。が誰一人彼女を誘つたものはない。今鳴つた板木はお説教の初まる知せであるとは云へ、彼女にも来いと云ふ様な懐しみの籠つた響とは聞えなかつた。汝は村外《そんぐわい》だ、汝はこの音に耳を塞いで一人でつつぷして居ろといふ様な怨めしい調子を帯びて居た。かうして何か事ある毎に村の人から彼れはのけものにされてしまふ。一日々々に彼と村の人との親しみは剥げて行く。このまゝにものゝ三月もつゞいたなら、彼は見も知らぬ他人を見るやうに村の人から目を反《そら》されることにもならう。段段|先方《むかう》では憎しみを増し、此方では邪《ひが》みが募る。意地を張つても、悲しいことには、彼女の一家は人の情《なさけ》と憐みとで生《い》きなければならない。腰を屈めて裏口から、口《くち》を糊《ぬ》らす米の汁をでも貰はなければならない。隔てが出来て困窮するのは彼女ばかり、彼女ばかり。彼女の一家ばかり。一人ぽつちになることは、どうしても彼には出来ないことである。
怨めしいとのみ思つて居た板木の響は彼女の心を妙に惹きつけた。自分も行つて見たい。何と人が思つても自分は村外《むらはづれ》にされつ切りになつては居られない。これがいゝ機会《しほ》になつて、親様へ出入が出来るやうにもならう。これから先、人から別物扱にされないやうにならう。何が恥かしいのだ。何が恐しいのだ。私の良人は泥棒にまでなつた。それに比べれば何ともない。
彼女はふてぶて[#「ふてぶて」に傍点]しい心になつて、老木の下を離れて親様の方へと足を進めた。
去年の秋中彼女はあの家の日傭取をして居た。綿取、麦蒔、大根取などに、多くの男共や女共と一しよに野良に働いた。屑綿を前垂に一杯位貰つて行くことは毎日の様であり、籠から下ろすとき折れた大根なども沢山家へもつてかへつた。刈上祝《かりあげいはひ》の餠搗の相どりをしたあとで、大きな福手餠《ふくてもち》を子供に貰つてやつたら、彼等は目を丸くして喜び勇んだこともあつた。小作米が蔵《くら》に運ばれて、扉前《とまえ》で桝を入れる。夕方跡を掃くと一合位は砂に交つた溢米《こぼれまい》が彼の所得となつた。さもしいと云はれたつてそれやこれやで一冬は楽にすごすことも出来た。彼は思ひ返して見て、闇の中で独りでに心の勇むのを感じた。
台所口の戸を明けて、のつそりと彼は親様の家へはひつた、大きな釜場につゞいて深く切つた爐がある。去年からの女中が一人柴を焚いて湯を沸して居る。ランプが一つ中の梁から釣り下げられて手のやつと届く程の処に光つて居る。一寸見たつて顔色がはつきり分らない。女中はすかすやうにして彼を見つめた。そして
「おや、まあ。」圧《おさ》へつけた様な声で呟いた。そしてせつせと柴を折りくべる方に気を取られた振りをしたなり、
「儀平どんのかゝさあ。」かう云つたが、あとを云ふべき辞を知らないで、もぢもぢして居た。
彼女はわざとしらじらしく、
「お晩になりました。」と云つてすぐと茶の間へ通つた。
坊さん嫌の大旦那は奥座敷へ引こんでしまひ、若旦那は留守であつた。お茶場に、おつかさま[#「おつかさま」に傍点]、下座《したざ》に姉様《あねさま》が、何れも説教者の方へ顔を向けて一心にお使僧の説教に聞入つて居た。村の人は二十四五人も集まつて居た。彼女がそつと歩みよつた閾際から言へば、みんなうしろを向いて居る。腰をおろして坐つたときに大勢は何にも知らなかつた。
ふつと横を見ると閾際《しきゐぎは》に誰やら手をついてお辞儀をして居るので、おつかさま[#「おつかさま」に傍点]は初めて新たに人が来たのを感付いた。それでもまさか儀平の女房であらうとは思ひ寄らなかつた。
「よう来たなう。」説教者にも聴聞者にも気の散れることのないやうに、小声でかう云つて、手で指図をしようとした。女はやはりうつぶした儘である。
「誰だい。」おつかさま[#「おつかさま」に傍点]は少し声を張つた。
大勢の人の顔が一しよに動いて戸口の方に向いた。説教者もちよつと詞を切つて、上座の方から見下ろす様にして戸口の人を呼びかけた。
「初まつて居るのだぜ。ずつと前にござらつしやい。」
燭台の灯《ともしび》と彼女の姿との間に大きな影があつて戸口は薄くらがりになつて居た。その影になつて居た老人が少しく体をねぢつた。明りは何ものの遮りもなく彼女の横顔に光をさしつけた。
「儀平とこのかか[#「かか」に傍点]だないか。」
おつかさま[#「おつかさま」に傍点]は、半ば驚き半ば怪んだ。
「はい。」彼女はたつた一言を云ひ得たきりであつた。
このあとをどう云つていゝかおつかさま[#「おつかさま」に傍点]にもわからなくなつて来た。村の人々もこの思ひがけない出来事に肝を潰して、挨拶の仕方もないやうであつた。お説教がやがて続き出したのをいゝしほ[#「しほ」に傍点]だとも思つたらしく、みんながもとの様に正面向《まとも》に身体を直した。大きな影が再び彼女と灯との間を遮つた。
「おれもお聴聞《ちやうもん》に来ました。」
暗い蔭から死ぬやうな声で彼は云つた。
「かかあ[#「かかあ」に傍点]。前へ出らしやい。」
一番近くに居た姉様《あねさま》は、姑《しうとめ》の心を測りかねたが、取りなしをするつもりで、
「そこは入口だがなう。もつと前へ出たはうがいゝがなう。」
彼は優しい姉様《あねさま》だと思つた。その詞について少しゐざつて、二尺程膝をすゝめた。それでも折り曲げた足の先が閾にさはるほどの端近である。かうしてやうやうのことで彼女は此の室内の一人となつた。けれども村の人々のまはりに漂つて居る空気と、彼女一人を包んで居る空気とは、丸で別々のものであつた。たとひ何十人あらうとも彼等と彼等との間には一脈の情味が流れ通うて居るが、彼女と彼等との間には、何の交渉もない。彼女一人は突然の闖入者にすぎないのである。只無智無自覚である此女にも、孤独の寂しさに堪へることの出来ない本能的慾望が、盲目ながらも根強く働いて居た。宇宙の大法則に引きずられて彼は今こゝに衆人の冷たい顧眄《ながしめ》を慕うて来た。しかも人はどの様な気分を以て彼を迎へたか。愚かな女にもすぐ想像が出来た。そして其想像が少しも間違はなかつた。「盗人の妻」はやつばり「盗人の妻」であつた。優しいと思つた姉様の親切な詞につり出されて、やつと片隅の一人となることはなつたものの、彼はそれで満足は得られなかつた。嫉《ねたみ》と邪《よこしま》とがむらむらと彼の心に湧き立つた。こんな家に誰が居るものか。彼は一時にかつとなつて、瞳を据ゑてお使僧の方を見つめた。
お使僧の説教は、彼女にとつては覗《のぞき》からくりの歌声《うたごえ》よりも猶無関心のものであつた。唇はたゞ動いて居るとしか思へなかつた。之を聴聞したい為に彼女はこゝへ来たのではない。帰つてしまはうと思へばすぐ帰つてしまへるのである。話に身を入れて聞くと云ふ様な殊勝な気は彼には決して起らない筈であつた。それが実に不思議である。彼が反省も思索もなく、きつとお使僧を見つめたとき、彼女は溢るゝ計りの熱心と真実との籠つた彼の説話の二言三言を聞くとはなしに聞き入つた。
「さて御同行衆《ごどうぎやうしう》、之から一大事の後生のことでござる。よく聞いて貰はなけりやならん。」
お使僧は詞を切つて、一度座中を見まはして、やがて話をつゞけた。
「炎天つゞきの真夏のことであつた、俺《わし》はこの夏米山越をしました。峠の上りにかゝつた頃はもう午下り、一時頃ででもあつたでありませう。何しろ熱い日盛のことだから、土から熱気が火焔のやうにもえあがる。そろそろ足も疲れて来る。汗はだらだらと流れて、目の中へ流れ込むと云ふ有様ぢや。小風呂敷一つの空身《からみ》の俺《わし》ですら、十足《とあし》あるいては腰をのし、一町あるいては息を休めなければならない熱さでありました。
頂上近く行つたとき、俺よりも少し先に一疋の黒馬が、米俵を一杯に背負はされてこれもやつぱり山越えをして居るので、俺《わし》よりもずつと先に出かけたのであらうが、俺《わし》は空身《からみ》のことだから、そこで追ひついたのでありました。
馬子が一人手綱をとつて居た。馬はもうへとへとになつて居た。両足はしつかと土にしがみついていくら引つぱつても動かない。もがけばもがくほど、口縄が緊めつけて、鉄の轡が舌を噛むのぢや。口から白い泡が吹きたつやうに湧いて出るのぢや。汗と云つたら俺達人間のものとは又違つて、滝の様だと云ふ形容が全く相当して居ました。あの様子では一足《ひとあし》だつて歩けたものぢやない。
それでも馬子は容赦もなく責めつけて居る。綱のはしでびしびしとしわく[#「しわく」に傍点]のである。しなしなした棒の鞭でなぐりつけるのぢや。そして『畜生』『畜生』と云つてどなつて居る。堪《たま》らないのは馬ぢや。痛いのとがなられる[#「がなられる」に傍点]のとで、一所懸命
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