の力で歩かうとするのぢやが、どうしたつて動けない。もう自分の力で自分を動かすことが出来なくなつてしまつて居《ゐ》たのぢや。」
 お使僧は、それを見兼ねて馬子に忠告した。少しは休ませてやれ、馬だつて気の毒ではないか、此熱いのに此重荷だ、動けるものではないぢやないか。死力を出しても足が動かないので、息もへとへとになつて居る。目を見なさい、目を。何と怨めしさうな目をして居るではないかと諫めても見たが、馬子はどうしても聞き入れない。余り云ふと怒り出すので、自分はたうとう見捨てゝ上つて行つたと云ふ成行きまでを語巧みに語り了つて、
「どうだ同行衆。これぢや、人間の姿は正に此馬ぢや。憎いと云うては、悲しいと云うては、人のものが欲しい、おのれの身がかはいいと云つては、寝ると起きると、心の鬼が責めたてる。娑婆は米山越だ。四苦八苦の鬼は馬子だ。人間は馬ぢや。綱でしはがれる[#「しはがれる」に傍点]。鞭でうたれる。荷は重くて、足は疲れて居る。早く此峠を越しさへすれば安楽浄土は十方光明の世界を現じて、麓に照りかゞやいて居る。処でその峠が六かしい。険《けは》しい道ぢや。深い谷が左右に見える。恐しい娑婆ぢやなう。それをふびんぢや気の毒ぢやと思召して、罪業の深い我々凡夫をお救ひ下さると云ふのが阿弥陀如来の本願ぢや。何と有り難い仰せぢやあるまいかなう。」
 説教の終る頃は、一座のもの皆が酔へるが如き心持であつた。なんまんだぶつ[#「なんまいだぶつ」に傍点]と呟くやうに称名する大勢のものの声は、心の底から自ら溶《とろ》けでるやうに室中《へやぢゆう》に満ちた。微《かすか》に鼻をすゝるものさへあつた。
 一時に皆が帰りかけた。六角の手作りの提灯に火をともす間は、挨拶をし合つたり雑談を取りかはしたりして、なかなかさうざう[#「さうざう」に傍点]しかつた。おつかさま[#「おつかさま」に傍点]は一々《いちいち》
「大儀だつたなう。」「やすみやれや」などと、村の人々を見送つて居た。十分とも経たない間に、すつかり出て行つてしまつて、跡は火の消えたやうにぽかんとしてしまつた。
 盗人の女房はこのときまでも座を立たなかつた。お説教に引ずり込まれて、彼は帰ることも忘れて居たのではあるまいか。お説教が彼の要求のどんぞこを突いたので、彼は悔と光明と法悦を心から感じた為でもあらうか。生活の苦悩に日々責め苛《さいなま》れて、益々|邪《よこしま》と偏執とに傾きかゝつた彼の習性が、一夕の法話に全く矯め直されたのでもあらうか。
 彼女の智識は、それが何であるかと云ふことを分解《ぶんかい》するには、遠く足りないものであつた。彼は何となく頭を掻きむしられるやうに感じたのであつた。自分と云ふものは、風の前の糠くづのやうに、すぐにも飛んで行つてしまつて、其行方さへ知れなくなるのではあるまいかと云ふ様な、漠とした不安が彼を襲ふのであつた。死ねばこんな苦艱がない。阿弥陀様のお力にすがりさへすれば、死んで極楽へ行かれる。どんなに安楽に、どんなにのびのびした生活が出来ることであらう。彼はそんなことをも考へて居た。
「儀平とこ[#「とこ」に傍点]のかかあ[#「かかあ」に傍点]。お前ばつかりになつたがなう。」
 おつかさま[#「おつかさま」に傍点]には、彼女が今夜来たのさへ解し難いことであるのに、かうしてたつた一人残つて、頭をあげずに居るのが一層をかしく思はれた。暫く返事もないので、
「お前どうするつもりだい。」
 かう云《い》つておつかさま[#「おつかさま」に傍点]は彼女の小さくなつて居る姿を見た。
「わしかね。わしは死ぬがんでござんせう。」
 彼女は、何を云ふ積りであつたか、自分でもよく分らなかつたが、かう云つた詞だけは彼も意識して居るのであつた。
「なにを云ふのだい。お前。」おつかさま[#「おつかさ」に傍点]まは驚いて、
「そんな馬鹿げたことを云ふもんじやないぜ。人がきいても聞きばが悪いからなう。さあ帰りやれや。大分に遅いんだから。」
 おつかさまは、和《やはら》かな調子で云ひきかせて、傍《わき》にあつた駄菓子を紙に包んで、彼女の前にやつた。
「子供もまつてゐるからなう。」
 彼女は無性《むしやう》になつかしくなつた。情味の籠つたおつかさま[#「おつかさま」の仰《おつしや》り方が涙を誘つたのか。もつと大きな人生の暖みと云ふことが心をそゝつたのか。和《やはら》いだ感情、寂しいと思ふあこがれ、邪《よこしま》と嫉《ねたみ》とがもつれあつた偏執《へんしふ》。これ等のものが一しよになつて彼の涙腺に突き入つたのか。彼は詞もなく泣いた。
「はい。まことに…………。」
 何《なに》をするのも懶《ものう》いやうな身体を起して、彼は戸口へ出た。さつきの人達はもう銘々の行くべき処へ行き着いたらしい。下駄の音も、話声も聞えない。夜は一きは真黒になつて、屋根のあたりに夜烏《よがらす》が啼いた。
[#地から1字上げ](大正二年十月十一日作/『文章世界』 大正二・一〇/『遺稿[#「稿」は底本では「稽」』 所収)



底本:「定本 平出修集」春秋社
   1965(昭和40)年6月15日発行
※底本は、著者によるルビをカタカナで、編者によるルビをひらがなで表示してありますが、このファイルでは、編者によるルビは略し、著者によるルビをひらがなに改めて入力しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※作品末の執筆時期、初出、初収録本などに関する情報は、底本では、「/」にあたる箇所で改行された3行を、丸括弧で挟んで組んであります。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2003年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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