と座つて居た。ぢつと……、どんなことがあつても動くまいと思つて、ぢつと……、ぢつと座つて居た。……どうしてこゝが動かれやう。興奮した彼はくらくらと目が廻るやうに感じた。と地震のやうな激しい力が自分を地の底から持ち上げて、自分をはうりだしたやうに感じた。もうその時彼は爐辺から七八尺離れた方へはねのけられて居て、お巡査《まはり》さんは、莚をひんむいて、穴蔵の口の蓋をとりのけようとして居るのであつた。
「あゝ。勘弁しておくんなさい。どうか、どうか、そればつかりは。」
 よろよろした足取で彼はお巡査《まはり》さんの両足にしがみつかうとした。
「何をする。」お巡査さんは、力強い腕をさしのべて、一つき突いた。女《をんな》は一たまりもなく倒れた。そして込み上げてくる涙を絞つて泣きくづれた。

 良人《をつと》はたうとうひかれ[#「ひかれ」に傍点]て行つた。十日や十五日は夢のやうにすぎてしまつたが、女房は良人《をつと》の消息をきかうとも思はなかつた。どう云ふ手続でどう云ふ順序で良人がお仕置になるのであるか。彼には無論想像もつかない。たゞ泥棒をすれば赤い着物をきせられるものであると云ふことだけを考へて居るのであつた。
 牢屋は町の外れの砂山の松原の中にあつた。嘗て近所の女房たちと一しよに、茄子や胡瓜の籠をしよつて町へ売りに行つたとき、監獄と云ふものを態々見物に行つたことがあつた。赤煉瓦の塀に沿つて彼等は疲れた足で廻つて見た。
「何とまあ、ふつとい仕かけだかねえ。」
「この世の地獄だつてがんだもの。」
 彼等はたゞきよろ/\として居るのであつた。いくら爪立《つまだち》をして伸び上つて見ても中の模様はおろか、建物の棟さへ見ることが出来ない。ぢつとながめて居ると、この宏大な、重い、頑丈な赤いものが、ずんずん高くのびて行つて、無限に天上までも届いてしまふのではあるまいかとさへ思はれる。無智な、臆病な田舎ものの女共の魂は、こんなことにも悸《おび》えさせられて居るのであつた。やがて門の前へ来た。門は真黒な鉄の扉がどつしりと見る目を圧して固く鎖してゐる。真中に挿しこんである之も鉄のかんぬきは、永遠に絶えざる地上の「悪」を牢《かた》く締め切つて居る。彼等はもうものを云ふことも出来ない。云ひ合した様にぴたりと歩みをとめた。丁度その時くゞりの小さい戸があいた。其口の寸法だけ真四角に門内の土が見えた。小砂利が敷きつめてある堅さうな土であつた。と、どやどやと人の足音がして、真先に黒服の看守が立つて、二組の囚人が門の外へ出て来た。
 盗人の妻の頭の中にはこの時のことがしつかり刻み込まれて居た。良人がどうして居るだらうと思つて、じつと考へ込んで居るときには、赤煉瓦の高い塀と、黒い鉄の門と、柿色の衣物を着て鎖でつながれた囚人の姿とがいつでも目に浮んで来る。日の目を見ない瞳はどんよりと濁り、頬は蒼ざめ、さかやき[#「さかやき」に傍点]はのびて穢《むさ》くるしくなつて居たあの時の囚人の顔が、自分の良人の顔と一つになつて、まざまざと闇の中でも見えて来る。
 良人が家に居てくれてすら生計《くらし》が付かなかつた手許であつたのに、村中から法外人あつかひにせられ、日傭取に出ようたつて一寸頼み手もなくなつた。十六になる伜は二三ヶ村離れたある知合の家へ奉公にやつてあるが、まだ十二の女の子と九つの男の子が残つて居る。小作をして居た田圃に水がついて鎌入れする張合もない。畑にとれた木綿を少し売つて百姓が麦を買はんければならない。大根と粉米《こごめ》と麦とをまぜた飯でも、腹一ぱいに食ふことが出来ないのであつた。秋はだんだん更《ふ》けて行く。人の膩《あぶら》を吹き荒す風で手足の皹《ひび》が痛いと云つて、夕方になると、子供がしくしくぢくね[#「ぢくね」に傍点]出す。そのすゝぎ湯を沸かすさへ焚物が惜まれた。
 調絲《しらべいと》の走る途《みち》だけ飴色につやが出た竹の車で糸を紡いで、彼は暗い行燈の灯をかきたてゝは眠い目を強ひて明けて夜業をした。魚脂油《ぎよしあぶら》の臭いにほひが、陰気な、寂しい室中《へやぢゆう》に這ふ。彼はそんなときになると、きつと良人《をつと》の顔が目の先にちらついてくることを感ずる。懐《なつか》しいと思ふこともあつたり、惨《みじめ》な目にあつてゐるであらうと思ふこともあつたりすることはあるが、彼はすぐに気が昂《たかぶ》つて、あの事がすつかり露顕《ばれ》てしまふ様になつた良人《をつと》の頓間《とんま》さを思ひ返しては、独りいらいらするのが常であつた。甘く仕事をしてしまつたのであるから、そつと落ちついて村に居てくれゝばなんでもないのであつたんだにと思ふと、町の地獄女に引つかかつて、自分までを騙して、気をぬく為めだと云つて茶屋酒なんぞを飲んであるいた為《し》うちが肝癪に障つて来るのであつた。それから良人を縛つてえらさうな顔をして居た巡査が憎くらしく、五本足の犬の見世物でも見るやうに、あの日の良人の廻りにより集つた村の人々が忌々しかつた。もつと/\考へて見ると、盗まれ主の親様の、土蔵の白壁が一番悪いんだとも思はれて来る。それでなくつても、食物がほしい、着ものがほしい、厚い蒲団がほしいと、物心ついてから四十二の今日まで、人のものを羨むと云ふことにのみあこがれて来た彼の眼には、あの白壁の中にどんな和《やはらか》い、どんなに美しい、見ただけで胸がわくわくするやうな、珍しい反物や珠玉《しゆぎよく》が蔵《しま》つてあるだらうか、それが一一手に取つて見えるやうにも感ぜられるのであつた。そこで他人のものを盗み取つた良人の行為は、決していゝことであるとは思へないが、そんなに憎々しいことを云はないでも、少しは憐れだと云ふ同情《おもひやり》があつたつてよさ相なもであるとも云つて見たい。
「ほんとにまあ、畜生が。」
 家宅捜索の日に、自分を刎ね飛ばして、穴蔵から、赤縞《あかじま》双子《ふたこ》の解皮《ときかは》が一反、黒繻子の帯も、之も解き放した片側が一本出てきたとき、あの親様のおつか様が恐しい目をして私を睨んだ。
「これだ、これだ。姉さあの帯皮だ。」かう云つてぐるぐる巻にしておいた帯皮を長々とひろげて、黒い蛇ののたうち廻つたやうに、室一ぱいに引きずつた。ふだんは、やさしい人なつこいあのやうなおつかさま[#「おつかさま」に傍点]でも、いざ自分《じぶん》のものとなると、あの様な劇しい詞が口から出る。盗人と畜生とが一つに見られてしまふ。憎いと云へば、此人だつてやはり憎い。
 丁度こんな毒々しい考に気が欝込《めいりこん》だ或宵のことであつた。彼は、いつまでも物を云はない、いつまでも動くもののない――子供はとうに寝入り込んで居た――夜の寂寞に堪へられなかつた。くたくたになつた藁草履を引つかけて背戸口から往来に出た。日がくれて間もない時刻であるから、銘々の家から、明りがさし、人の話声なども、しかとはわからないが、ごそごそと耳にはひる。姿も見えないどこかのあまり遠くない所に追分節の長く引つぱつた声が聞えたが、中途でばつたり切れた。静かなことはやつぱり静かである。
 彼は観音堂の境内にはひつた。往来からは何の仕切もない広前が少しばかりあつて其正面の奥手に御堂がある。四つばかりの階段を上つた処が廻り縁になつて居て、中は四間の奥行二間許りの板敷がある。それは村の児守子どもの遊び場で、三方ともがらんどうの、戸締とてもない。それから又一段上つて、云はば内陣ともあるべき幅一間程の細長い板の間の奥に龕《おづし》がある。千手観世音が祀つてあるのだ。彼は何と云ふ考もなしに、ふらふらと縁に上つた。そつと草履をぬいで素足のまゝ板敷の板を踏んだ。暗いので足許も確かでない。と、何か足の裏にさゝつたやうな気がして少しく痛かつた。それは※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《くぬぎ》の殻《から》を踏んだので、踏まれた殻は平らにへし潰された。疵をするまでもないものであつた。彼はちつと舌打をして、忌々しさうにそれを拾つて抛りつけた。
 やがて龕《おづし》の前に近よつた。太い格子戸の戸が左右から引かれて、太鼓錠が枢《とぼそ》の真中に下つて居る。彼は手さぐりに戸前《とまへ》の処を撫でて見た。冷たい鉄の錠がひやりと彼の指先にさはつた。これと云ふ悪心の起つた訳ではなく、此戸が開けて見たいと思つて手さぐりをしたのではなかつたが、錠と云ふものが自分と龕との間をしつかり仕切つてあることが、云ひしれず憎悪の感じを募らせた。
 綿緞子《めんどんす》の赤い幔幕はもう色があせて居《ゐ》る。信者の寄進したものと云つても、押絵細工の額面か、鼻や手足の欠けた人形か、絹の色糸がかがつてはあるが何の値もない手毯か、そんなものより外は、一つだつて金目の籠つた品物のないのは、彼がふだんようく知つて居る所である。そこへはひりこんで、彼は何を盗み出さうとするのであらう。彼はもとよりそんなことを意識して居るのではないのであつた。只この扉の中は滅多に他人が覗いたことはないものである。かうして、ぢつとこゝに立つて、ぢつと此扉の中を覗き込んで居ると、どうやら自分ばかりが見ることの出来る不思議の宝物が蔵《しま》つてあつて、そこに富と幸福とが、水銀を撒いたやうに散らばつて居る。それを自分丈がこつそりと攫んでしまふことが出来るのではあるまいかと思はれるのであつた。
 彼は二三度錠をねかしたり起したりして見た。鍵がないから明きさうなことはない。
「たゝいたら此錠はゆるむのだ。」彼はかう思つて、堅い木切れか、石ころが欲しくなつた。一旦縁を下りて、そこいらを探《さが》さうとしてもとの板敷の方へ歩みを戻した。足元がふらふらする。股のあたりはすつかり力がぬけてしまつて、耳はほてり、頭がむしやくしや[#「むしやくしや」に傍点]するのを感じた。彼が閾際《しきゐぎは》近く来たとき、村の女房達らしい者が二三人高声で話し合ひながら、往来を通つて行くのが彼の目にも見えた。これはさつき御堂に上つてから初めて彼の知覚にとまつた人の気勢である。御堂へ上つてからこれまでの時間は本統はそんなに長い時間ではなかつたが、彼には非常に長い長い時間と感じられた。そしてその長い時間の間、自分はこの世界にたつた一つ動いてゐるものであるとばつかり彼は感じて居た。それが今人声に気がついて見ると、彼は此世の我に蘇へつた。
「おらあ、仏様の罰を忘れてゐた。」
 彼は急に恐しくなつて来た、べたりと縁の上に坐つた。
 夜の空は晴れて居た。月は無いが、星が、宵の黄《きいろ》い色から、だんだん白い光に変つてしまつた。さやさやした風が横手の竹薮を吹いて、広前の砂の上に落ちた。
 女はやつと起き上つて、階段を下りた。一歩《ひとあし》づゝたしかに踏みしめて、堂の鼠にも聞かれないやうに足音を偸むのであつた。下りてしまつて彼は、どこへ行くべきか、全く目的はないのである。
 体《からだ》の向方《むき》をも知らずに彼は歩み出した。後《あと》ずさりをして居るのかと見える程僅かづつ前に出た。夜は暗い。と、彼の鼻先に、巨大な真黒なものが彼を圧して立ちはだかつた。彼ははつとした。全身の毛孔が一時に寒けだつた。冷たい汗が背中に滲み出た。
 樅《もみ》の木である。此境内にたつた一本ある樅の木である。口碑から云へば百五十年以上の老木である。根元の洞《うつろ》に、毎年熊蜂が巣を作る。蜂退治だと云つて、多勢の腕白共が、棒切れをさしこんだり、砂を投げ込んだり、或は火をつけて焼かうとしたりする。蜂は又自らの生活の根城を死守して屡侵略者を刺した。かう云ふ戦が繰り返されてからも、もう何十年になることやら。木は亭々として四時の翠色を漲らして居る。
 真直に往来へ出るつもりなのが、彼はいつしか左にそれて樅の木の下へ来て居たのであつた。さうとはつきり解つてしまへば、一時の恐怖はなくなつた。
 およそ此村に住むもので、観音様の樅の木を知らないものがあるものか。叉此村に生れた子供でこの木の下に遊ばないものがあるものか。この木の上に鴉が啼いて夜が明ける。この木の上に鴉が舞つて日が此上でくれる。天気
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平出 修 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング