しみもすつかり融《と》けてしまつた。どうにかして女房を素直にあやまらせて、お上からあんまりがみがみ云はれないうちに、早くゆるして貰ひなさいと勧めて見る気になつた。
けれども女房の顔にはそんな和《やはらぎ》が少しも上らなかつた。髪はぐるぐる巻にして油つ気もないので後れ毛は容赦なく、骨ばつた頬のまはりに乱れて居た。鼻だけはやゝ形がいゝが、目元に険があつて、口がきりつと男の様にしまつて居た。すてばちになつたら何ものにも恐れないと云ふ毒々しい気性がしんねりむつつりした容貌の上にあらはれてゐた。流石《さすが》おつかさま[#「おつかさま」に傍点]に向つては、唇をそらしても居られないのであつたが、さればと云つて、心からお詫をしようとは思ひこんでは居なかつた。女房はどこまでもふてぶてしく、強ひて空うそぶくやうな様子を作らうとするのであつた。
お巡査《まはり》さんは此間もちつとも考をやすめなかつた。気のせいか、どうも女房の素振が可怪しく思はれてならなかつた。第一、自分等が付いて来てからと云ふものは、あの女はちつとも坐をたゝない。あわてないからだと云ふにしたところで、挨拶をするにも、あんまり落ちつきがすぎる……。と忽ち頭の中に或事かひらめいた。殆ど無意識的にお巡査さんは自分が今何の上に坐つて居るかを調べる為に、手を莚の下にやつてみた。麦藁を敷きならべた上にすぐ莚が敷かれてあつて、床板《ゆかいた》は全く無い。すつくと立つて女房の傍へ歩みよつて、肩をつかまへた。
「そこどけ。どいて見ろ。」お巡査《まはり》さんはもう逃《のが》さないぞと計りに睨み下した。
この時の女房の様子は、実に不思議であつた。何もかも之れぎりだ。かう覚悟をきめたかのやうにも見えた。どんなことがあつても動くものか。かう決心したかのやうにも見えた。自分も良人と同罪だ。かう思つて恐しい罪人となることに顫へを感じたかのやうにも見えた。ありとあらゆる情感が一ぱいに溢れ出たとき、怨めしいとも思はずに涙が出る。そんなやうな気分で胸が全く塞つてしまつた。さうして一番はつきり此女の考として残つたことは、此品《これ》をとられてしまつてはすぐ食ふことが出来ない、自分と、三人の子供の命の蔵《くら》は、今自分が座つて居る莚の下にある、生きたいと云ふ一念で、良人《をつと》は恐しい土蔵破りをまでした、その一念で、自分は怖さ、恥しさを忘れて、ぢつと座つて居た。ぢつと……、どんなことがあつても動くまいと思つて、ぢつと……、ぢつと座つて居た。……どうしてこゝが動かれやう。興奮した彼はくらくらと目が廻るやうに感じた。と地震のやうな激しい力が自分を地の底から持ち上げて、自分をはうりだしたやうに感じた。もうその時彼は爐辺から七八尺離れた方へはねのけられて居て、お巡査《まはり》さんは、莚をひんむいて、穴蔵の口の蓋をとりのけようとして居るのであつた。
「あゝ。勘弁しておくんなさい。どうか、どうか、そればつかりは。」
よろよろした足取で彼はお巡査《まはり》さんの両足にしがみつかうとした。
「何をする。」お巡査さんは、力強い腕をさしのべて、一つき突いた。女《をんな》は一たまりもなく倒れた。そして込み上げてくる涙を絞つて泣きくづれた。
良人《をつと》はたうとうひかれ[#「ひかれ」に傍点]て行つた。十日や十五日は夢のやうにすぎてしまつたが、女房は良人《をつと》の消息をきかうとも思はなかつた。どう云ふ手続でどう云ふ順序で良人がお仕置になるのであるか。彼には無論想像もつかない。たゞ泥棒をすれば赤い着物をきせられるものであると云ふことだけを考へて居るのであつた。
牢屋は町の外れの砂山の松原の中にあつた。嘗て近所の女房たちと一しよに、茄子や胡瓜の籠をしよつて町へ売りに行つたとき、監獄と云ふものを態々見物に行つたことがあつた。赤煉瓦の塀に沿つて彼等は疲れた足で廻つて見た。
「何とまあ、ふつとい仕かけだかねえ。」
「この世の地獄だつてがんだもの。」
彼等はたゞきよろ/\として居るのであつた。いくら爪立《つまだち》をして伸び上つて見ても中の模様はおろか、建物の棟さへ見ることが出来ない。ぢつとながめて居ると、この宏大な、重い、頑丈な赤いものが、ずんずん高くのびて行つて、無限に天上までも届いてしまふのではあるまいかとさへ思はれる。無智な、臆病な田舎ものの女共の魂は、こんなことにも悸《おび》えさせられて居るのであつた。やがて門の前へ来た。門は真黒な鉄の扉がどつしりと見る目を圧して固く鎖してゐる。真中に挿しこんである之も鉄のかんぬきは、永遠に絶えざる地上の「悪」を牢《かた》く締め切つて居る。彼等はもうものを云ふことも出来ない。云ひ合した様にぴたりと歩みをとめた。丁度その時くゞりの小さい戸があいた。其口の寸法だけ真四角に門内の土が見えた。小砂
前へ
次へ
全9ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平出 修 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング