あらはしてゐる。
「何しろ品川で一流だからね。」
「そんなにおだてるもんぢやなくつてよ。さあ、久しぶりにお聞かせなさいな。」
「歌つてもいいかい、又蔭で何のかのと云はれるからなあ。」
「またあんなこと、もう忘れつちまふんですよ。昔のことなんか。」
「どうです。かう云ふ薄情《はくじやう》女です。」
「いいことよ。」
「一昨年《をととし》だつたね、芝居であつたのは。」
「さうでしたわ。そのせつはしつれい。」
おもちやは軽く会釈《えしやく》して三味線を取上げた。種田君は追分を唄つた。ちやんとつぼにはまつた声が快くみんなの耳に流れ込んだ。
「栗村さんは。」
「歌ふさ。歌つても大丈夫かい。」
「もう決して嫌つたりなんぞ致しません。」
一頻《ひとしきり》陽気になつた。お糸さんも二階のお客さんを送りつけて手がすいた。
「みなさんに一度揃つて来ていただくといいけどねえ。」お糸さんはかう云つて、一さかりのあつた私達の連中を、一一云ひ出しては、「どうしていらつしやるの、」と聞糺《ききただ》して居たが、
「先日松田さんがいらしつてよ。」
「ほう。」私達はお糸さんの話を迎へた。
「四五人連でおいでになつて、みんなにはいいのをあてがつてくれつて、御自分はぢきにお帰りなさいました。貴方はと申しますと、『お糸さん、私も昔と違つてなあ、どうも品川で女買が出来なくなつたよ。』つて笑つていらつしやいました。」
「さうさな、松田君も今は日の出だからなあ、」と私も云つた。お糸さんは其詞の後について、
「貴方ののがまだゐますよ。」
「へえ、あれがかい。これは驚いた。」
「今夜行つておやりなさいな。」
「松田君ぢやないが、どうもねえ。しかしお糸さん、あの頃もをりをり話したこつたが、どうしてもあの女とは気が合はなかつたね。」
「さうでしたわねえ。どうしたんでせうね。」
「やつぱりもてないのさ。処《ところ》で一つ珍談があるんだ。お糸さんにも話さない事なんだが。」
「あのひとのことで。」
「さうさ、なんでも年の暮だつたよ、ここから皆と一しよに行つたんだ、もう座敷はあいてゐないので、例の通りすぐ返らうとすると、妙にとめるんだねえ。をかしいなと思つたけれどちつとは己惚《うぬぼれ》もあるわね。まあ名代《みやうだい》へ坐り込んだ。すると女がやつて来て、ありもしない愛嬌を云つてるだらう。いい加減にこつちもあひしらひしてゐると、こんどはあの婆さんが来て、年始の手拭を何反とかこさへてくれと云ふんだ。」
「そんな事がありましたかしら、そしてどうなすつたの。」
「まさかいけないとは云はれないぢやないか、いくら位いるんだと、わざと問うてやつたのさ。大したことではありませんと云ふから、之れで間に合しておけと云つて、拾円ふだを一枚おいてきた。小一年にもなる女だから、それ位のことは惜しくもないさ、惜しくつともまあ惜しくないつてことにしておくさ。けれど甘く見てやがるかと思ふと、癪にさはつたよ。」
「それでも貴方は、あの人一人つきりにしておおきなすつたわね。」
「かへたつてどうなるものか。」
「だから今夜行つておあげなさいよ。」
「もう真平《まつぴら》だ。」
かうは云つたけれど、私はどんなにして居るか遇つて見たいと思はぬでもなかつた。四年もたてば、私も変つた。女も変つたであらう。どれほど変つたか遇つて様子が見たかつた。しかし突然今私が行つたら女は何と思ふであらう。私はかう云ふ種類の女に対しても常にある憧憬《どうけい》をもつてゐる。もし私の憧憬する幻をもととして、私にあつた今夜の女の心持を想像して見ると、女は屹度《きつと》羞《はづ》かしいと思ふであらう。四年にもなる今日迄、まだこんな態《ざま》をして居りますと云はなければならない女の苦痛は、決してなみ大抵ではあるまい。
「今日来て下さる丈の親切のある方なら、なぜ顔を見ずに帰つて下さらなかつた、」と云つて、口に出さぬまでも心に怨めしく思ふであらう。それ程|辛《つら》い思を女がするだらうと思つてるのに、そのつらさうな顔を見に行くのは、私はあまり惨《むご》い為打《しうち》であると思つた。もし又私の想像に反して、女が案外平気で洒蛙洒蛙《しやあしやあ》して居つたら、私の美しい憧憬は破れ、私の美しい幻は即座に消えてしまふであらう。さうなれば私の方で苦痛だ。私はまだ夢の中の人間となつて居りたいのであつた。
「何しろ今日は看護人なんだから、」と云つて、九時少し過ぎに「桔梗」を出た。
乾ききつた寒中の夜の風は、外套の袖をつらぬく程であつた。折角《せつかく》暖かになつた二人の身体はまた凍り付くかと思はれた。種田君は梢《やや》確《たしか》な歩調を運ばせ乍ら、
「どうも不思議でならん、」と呟いた。
「何がです。」
「あすこの内のものの親切がさ。実に今夜なども有難い位であつた、」と種田君は沁沁《しみじみ》感じ入つて居つた。
それから一年の間は私の病気の記録の外何もない。去年の十二月の初めに内のものが帝劇へ行つたらお糸さんに遇つたと云ふ話をして居つたきり、噂もなかつた。梅はもう遅く桜はまださかない今年の三月の中頃であつた。病上りの身体で少し疲れも来たから、穴守へでも行つてゆつくり遊んで来ようと思つた。友人の藤浪君と二人づれで行くことにした。夫《そ》れでもどうやら物足らない様に思つたが、ふと病中にきいたことを思出した。帝劇で遇つたときお糸さんが羽田に居ると云つて居つたと、内の者が帰つてから話をしたその事である。ひよつとしたら羽田へ旅館でも出して居るのかもしれない、さうとすればその内へ行つてやればいい。すぐ「桔梗」へ電話をかけさせた。
「お糸さんが電話口ヘ出ました。」と執次《とりつぎ》の者が云ふ。をかしいと思つて、自分で話して見ると、羽田に居ると云ふのは何かの聞違《ききちがひ》で、やはりあの内に居るんだと云ふことだ。
「もしお前さんが羽田へ行つてるのなら、尋ねようと思つてね。」
「いいえ、あたしはやつぱり内ですよ。貴方がた羽田へいらつしやるの。」
「これから行かうつてんだ。どうだ、一しよに行かないかい。」
「本統ですか。」
「本統とも。」初めは本気でもなかつたが、おしまひに今これから行くから支度をして待つてをれと云ふ約束になつて電話を切つた。
「さあ行かう。」私は藤浪君をせき立てた。出がけに不意の来客などがあつた為時間が少し延びた。八ツ山下で電車を下りた。其あたりは往来の人で相変らずの雑沓だ。鉄道線路の上に跨《またが》つて居る橋の上には、埋立工事の土車《つちぐるま》の運転を見ようとして、誰も誰も一寸《ちよつと》足をとめて見る。「こらつ、たつちやいかん、」と云つて査公がやかましく逐払つてゐる。払はれた人が通りすぎもせぬうちに又新らしい人が立ちどまる。査公は終日「こらつ」を繰り返さねばならぬのであつた。
お糸さんは待ちあぐねて居つた。
「かつがれちやつたのかとも思ひましたが、電話がまじめなお話ですし、そんなわるさをなさる方でないし………。」
「どうもお待ち遠さま。」
「あら、そんなに改まつて、何ですね。もう此頃はおよろしいんですか。」
「まあ生命《いのち》丈は取りとめたよ。」
「それはお目出度うございました。一体御病気はどんな………。」
「肋膜さ。」
「さうですか。うちのおもちやもやつぱり。」
「肋膜をやつてるの。」
「ええ、赤十字病院へ行つてますの。も二月ほどになります。」
「そりや大事な金箱を痛めて困るね。此病気は長いからな。」
お仲さんの酌んで出した番茶に喉を霑《うるほ》して三人づれで出かけた。
館の門をはいると、女中が式台《しきだい》の処へ出迎して居る。
「妙なお客が来ると思つてるだらう。」私は女中の方を見乍ら云つた。
「男二人に女が一人つてんだからな。」藤浪君も笑つた。
「その女もこんなに汚《きたな》いおばあさんですものねえ。」
果して女中の眼の中には判断に迷つたらしい色がただよつて居た。
「おとまりでいらつしやいませうか。」座敷の都合でもあるのか、此三人の正体をさぐる材料にでもするのか、女中はかうきいた。
「とまるかも知れんが、とにかく二時だ、御空腹と云う処だ。」
「かしこまりました、」と云つて女中は奥まつた座敷の二階に通した。
上日《うはひ》がいいので、電車から橋を渡つて赤い鳥居の並んだ途をあるいて来る間に、全身は少し汗ばむ程であつた。座敷へ落着くと軽い疲労を覚えて私はすぐ横になつた。わづらつた左の肋膜がまだ疼《いた》むので右に臂枕をした。お糸さんは枕をさがしてきて、お寒いからつて私のマントを取つて上へかけてくれた。
「やつぱりやせていらしつてね。」
「まあ見てくれ、こんなだ。」私は寝ながら左の腕をさしのべた。
「いたいたしいこと。あたしはこんなに、」とお糸さんは右の袖をかかげて見せた。節の短い円く肥つた腕ではあるが、女らしいふくらみがないのであつた。
「強さうだね。」藤浪君はかう云つて、
「僕はどうだ。」がんぢやうな前膊《ぜんはく》の皮膚はやや赤味を帯びて、見るから健康を語つてゐる。
「いい体格だね、」と私は惚れ惚れしてそれを飽かず見入るのであつた。
私はだんだん眠けがさして来た。お糸さんと藤浪君とはいろいろ面白いことを話合つて居る。
「ぢや今はおひとり。」お糸さんが藤浪君にきいた。
「独りだ。先月八人目の嬶《かかあ》ににげられたんだ。」
「どうなすつたの。」
「何にもしないが逃げるんだ。」
「そんなことがあるもんですか。」
「実際だ。八人のうち、二人に死なれて、六人に逃げられたんだ。どうかと云つて手を合せて拝むんだけれど、みんな逃げてしまふ。それも僕の景気のいい時ならいいんだが、もう為方がないときばつかり騒ぐから、逃げて行く女に手当もやれずさ。」
「逃げて行くやうな女でもかはいいものですか。」
「そりやさうとも。僕の方ぢや決して憎くないんだからね。ああして僕をすてて行つても女の身で差当り困るだらうと思つて、どうにか出来るまで辛抱して居てくれといつでも頼むんだ。女と云ふものは酷《ひど》いよ。景気がわるいと騒ぎ出すからな。」
「奥さんと別れたとき、おさびしくはなくつて。」
「それは寂しいさ。ああまたひとりものになつたと思ふと、世の中がまつくらになるやうに思ふね。」
「それでも新しい方《かた》がお出来になればいいでせう。」
「さあ。さうだが前の女もやつばりかはいいね。」
私はこんな会話を半意識的に聞いて居た。先月私が伊豆の転地先から帰つて来ると藤浪君が留守中のことを話した。その後で茶を酌み乍ら、藤浪君が女房を離縁したと云ふことを自分から云つた。
「僕を脅《おど》す積《つも》りだつたんだらう、離縁状に判を押せと云つて来たんです。よしと云つてすぐ署名捺印した。そして僕から戸籍役場へ直接郵送してしまつたんです。するとあの離縁状は私の本心でないからつて、嬶が手紙をよこしたが、それはもう届を発送したあとだつたから、今頃は驚いてるでせう。」
「無茶のことをするね、君。」
「なあに金が出来れば又どうにもなりますよ。さうだが今の僕の境遇ですから困るんです。」
かう云ふ藤浪君の態度は、今は貧乏故、すてて行く女に手当もやられぬことを憾《うら》みとすると云ふことの外、何の未練もないやうに見えた。けれど今きいてゐれば、あの無頓着な、どちらかと云へばちとずぼらのすぎる男の胸にも、女に逃げられた時の寂しみを味つてゐるんだと私は思つた。
その中《うち》に女中が膳をもつて来た。
「姐さん五勺でいいから、」と藤浪君は酒を誂《あつら》へて、
「景気をつけよう、」と云つて独りで陽気になつて居る。私も起きて箸をとる一人となつた。
「こちらのお話は面白いですねえ、」とお糸さんは私に話しかけた。
「本統に奥さんがおありなさらないの。」
「なあにいい加減のことよ。それでも君がどうかしたいつて云ふんなら。」
「あたしがどうしようたつてねえ、貴方。」お糸さんは藤浪君を見てはれやかに笑つた。
「僕の方はすぐでもいいんだがね。ただいつまでもくつついて離れないつてのが欲しいよ。お糸さんなら
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