そこは確かだらうと思ふ。」
「わかりませんよ。景気がわるくなると逃げだす方かもしれません。」
「串戯《じやうだん》は串戯だが、お糸さんはまだないの、」と私は詞を改めた。
「そんな気のきいたものがある位なら。」
「ないつてことがあるかね。」
「ほんたう。そんなものがあれば大変ですもの。」
「何が大変なんだ。」
「うちがですよ。それはなかなかむづかしいんですから。」
「むづかしいつて、お糸さんは『桔梗』の娘分だらう。」
「ええ。」
「それでどうして。」
「とても駄目なんです。もうあきらめてゐますわ。」
「あきらめる年でもあるまい。一体いくつになるね。」
「あたし、じこくのみです。」
「巳年《みどし》と云ふと、とかく執念深いだらう。」
「いいえ、おなじ巳でも一白や三碧とはちがひますの。縁の薄い星ですつて。」
「僕もじこくのみだ。ぢやお糸さんも二だね。僕もやつばり星にまけてるんだ。」と藤浪君が云つた。
「貴方も星まはりが悪いんですわね。」
「じこくのみは三十二か。それならまだ盛りと云ふもんだ。今の内ならどうにもなるだらう。」
「もう遅うござんすわ。考へてごらんなさい。どんなかたが来てくれますか。殿方で三十五六で独り身だと云ふ方は、何かそれには訳がありませう。」
「さうさなあ。女房にさられたとか、死《しに》あとで子供があるとか。さもなけりや身がもてないとかだらうね。」
「だもんですから考へて見ますと、おそろしくなりますの。と云つてまさか二十代の人ももてませんでせう。」
「それもさうだな。けれどさうしてゐたら、心細くはないの。」
「たよりないとも思ひますわ。行先のことなど考へますとね。けれど男の方ほど宛《あて》にならないものはないやうな気もしますわ。」
「浮気もの相手の商売をしてゐるから、そんなところが目につくんだ。」
「僕はまた女ほど宛にならんものはないと信じて居る、」と藤浪君が云つた。
「さうぢやありませんよ。女の方がまだたしかですよ。」
「君がさう云つても駄目だよ、」と私は藤浪君に云つて、
「お糸さんは、女買にゆくときの男を知つてる丈で、まじめなときの男を目に入れないんだから。」
「大さう話がむづかしくなりましたこと。あ、貴方の華魁《おいらん》ね。あのしともひきましたよ。」
「さうかい。一ぺんあひたかつたな」
「うそばつかり。これですもの、殿方はあてにならないわ。」
食事を終つた頃私達の隣の間へお客が来た。間の唐紙《からかみ》をたて切る女中の後からちらとその客の様子を見て取つた。夫婦ではなさ相な若い男女の二人連であつた。廂髪《ひさしがみ》に結《ゆ》つて羽織を着流したすらりとした肩付は、商売人ではない。
「やつてるなあ。」藤浪君がおさへる様な声をして笑つた。
「そんなに岡焼《おかやき》なさるから奥さんに嫌はれるんですよ。」お糸さんも亦忍び声で云つて笑つた。私も笑つた。
日脚が短い。五時にはあかりがついた。夜の商売だからと云つてお糸さんは帰り支度をした。そこまで送らうと云ふので三人揃つて出かけた。
「貴方方おまゐりは。」
「稲荷様なんぞどうでもいい。」
「でもあらたかですよ。」
「心願するかね。」私は藤浪君を振り向いた。
「例の一件が成功する様につてか。」
「とにかくいらつしやいな。」お糸さんは要館《かなめくわん》を出て左の本堂の方へ行く。私達もついて行つた。堂のうらを通つて右へ曲ると、社務所がある。お札やお米を受ける所もある。其向うがお穴様だ。お糸さんは油揚《あぶらあげ》を買つてお穴様へ供へた。そして御鈴《みすず》を何遍もふつた。微《かすか》に柏手《かしはで》もうつた。長いこと礼拝をした。やがて暗い穴の中へ杓子を入れて砂を三杯ほど紙袋につめた。
「なにするんだい、」と私が問うた。
「これですか。お砂を戴いて行きますの。之を庭先にまいておきますの、商売繁昌のおまじなひに。」
それから本堂の前へ出た。そこにもお糸さんはお参りをした。私達も引きつけられたやうになつて、真実心でお参りをした。
「お土産《みやげ》は。」
「もう沢山ですわ。いろいろ有難うござりました、」と云つて二歩三歩お糸さんはあるいたが、
「今夜いらつしやらないの、」と云つた。
「ああ、病人だからね。」
「さうでしたわねえ。ぢやしつれいします。どうぞお近いうちに。」
私達は赤い大きな鳥居の傍で、お糸さんの小走りで帰つて行く後姿を見送つた。
[#地から1字上げ](明治四五・六・八―一〇稿/「スバル」明治四五・七/『畜生道』所収)
底本:「定本 平出修集」春秋社
1965(昭和40)年6月15日発行
※底本のルビは片仮名で表記されていますが、外来語を除きすべて平仮名に直して入力しました。
※作品末の執筆時期、初出、初収録本などに関する情報は、底本では、「/」にあたる箇所で改行された3行を、丸括弧で挟んで組んであります。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2003年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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