ないか。」種田君は微笑み乍ら云つた。
「だつて未決とやらへやられるつてぢやありませんか。」
「馬鹿な、そんな事が。」私は言下に打消した。
「でも内の姐《ねえ》さんが、それはそれは大騒ぎをやるんでせう。未決へ行くと、毛布がいるの紙がいるのつてね。明日《あした》は内へ帰らない覚悟で出なけりやつて、今朝からお不動様を拝んで居ましたんですの。」
「お前さんがつまりゆすられたんでせう。」
「さうですわ。」
「自分がゆすられて、自分が監獄へ行つてたまるものか。」
種田君は全く真顔で説明をした。
「此端書はお前さんに尋ねたいことがあるから出て来いと云ふんだ。何でもない事ぢやないか。証人に呼ばれたんだよ、お前さんが。」
「へえ、それぢやまた警察の様《やう》なことを聞かれるんですか。」
「さうだ。」
「それで先生。」お糸さんは少し落ちついた。「ねえ先生|跡《あと》がこはいんですから、おあしはあげたけれど、あれは先方で何も仰有らないうちに、あたしからあげたんですつて、さう申したらわるいでせうか。」
「それこそ未決騒ぎがおきるよ。」私が話を引取つた。
「先方が何も云はんのに、君がおあしを上げたつて、そんなことは云つたつて、誰がほんとうにするものかね。」
「それはさうですねえ。」
「そんな嘘を云つちやいけないよ。」宮川君も側から口を出した。
「だつて跡がこはいんですもの。」
「跡がこはいからつて。それよりは明日の事だ。明日丈のことは正直に云つてしまへば、お不動様も何もありやしないよ、」と私が云つた。
「それぢやすぐ未決などへやられることはありますまいか。」お糸さんはまだ不安げに念を押してゐる。
「大丈夫さ。心配することはないよ。両先生が後見して下さるんぢやないか。」草香君が此話の総括《そうくく》りをつけてしまつたので、お糸さんは心から嬉しさうに、
「それで内での相談に、どうしたらよからうつて姐さんといろいろ考へましたの、何んでもこんな事は先生方におきき申すのが一番早いと思ひまして、電話でお伺ひ致しましたんです。あたしの様なものが上つて御迷惑かと存じましてね。ああ、もう之れですつかり安心致しました。」と何遍も何遍もお辞儀《じぎ》をした。
「先生へ御礼はどうするんだい、」宮川君がそろそろからかひはじめた。
「いえもうなんなりとも、」とにつこりした。
 こんな時でも此女には艶《なま》めかしいと思はれるこなしがちつとも見えない。あのきりやうでじやらじやらされては却つて辟易《へきえき》するかも知れぬが、盛り場に育つてここに年中呼吸して居る女とはどうしても思はれない。

 その次にお糸さんに遇つたのは一年ほど経つてからであつた。東京座で団蔵の師直と梅幸のお岩とが呼物で大層な景気であつた。私は家内と子供をつれて見物に行つた。其日お糸さんも三業組合の連中で私達のつい傍の桝《ます》へ来て居《を》つた。私を見付けるとやつて来て何やかや話をして居た。家内にも挨拶をして居た。「おもちやさんも来てますよ、」と云つて、
「あすこの土間で、お納戸《なんど》色の羽織をきて、高島田に結《い》つてませう。いまちよいと中腰になつてます、あれですよ、」
と指さして居ると、おもちやもふつとこちらを向いた。お糸さんはおいでおいでをした、「なあに。」と云つたやうなこなしをして私の方へ桝の枠をつたはつて来た。
「栗村さんよ。おもちやさん。」
「まあ、」と云つておもちやは頭を下げた。
「大きくなつたなあ。」私は本統にかう云はずに居られなかつた。「もう立派な姐さんになつたね。」
「え、え、此頃はもう、隅におけませんよ。」お糸さんは蓮葉《はすつぱ》に云つた。
「いやよ姐さん。」眼のぱつちりした、額付の広いところがお酌の時のおもかげそのままではあるが、女になり切つてしまつたところが、其日の私には珍らしいのであつた。
「此人だあね、」と私は家内を振り返つて、
「歌さへ歌はなけりやいい人だと云つたのは。」
「さうでしたか、」と家内も笑つた。
「そんなこと、まだおぼえていらしつたんですか、」とおもちやも笑つた。
 次の幕合《まくあひ》にお糸さんは、子供にと云つておもちやの箱を買つて来てくれた。そして此|楽屋《がくや》裏にお岩様を祭つてあるからお参りにいらつしやいと誘つた。
「可愛いお嬢さんですこと、本統に可愛いんですこと、」
と云つて娘の手を引いてくれた。私達もその跡についた。楽屋のうす暗い二階を上つたところに祭壇がある。初穂《はつほ》、野菜、尾頭付の魚、供物《ぐもつ》がずつとならんで、絵行燈《ゑあんどん》や提灯や、色色の旗がそこ一杯に飾られて、稍奥まつた処にある祠《ほこら》には、線香の烟が濛《まう》として、蝋燭の火がどんよりちらついて居る。お糸さんは祠の前へ跪坐《きざ》して叮嚀《ていねい》に礼拝した。
「何を願つて来たの、どうかいい人を授けて下さいかね。」
「商売繁昌をお願ひ申したんですわ。」
「ここへ来てもまだ慾張つてゐるんか。」
「一番当りさはりがなくつていいでせう。」
「神様の前に当りさはりを考へてゐるものがあるものか。」
「当りさはりつて云へば、いつかはいろいろ御心配をかけまして、あの裁判の事で。」
「どうしたね。種田君から一寸聞いたけれど。」
「お蔭様でねえ。あたしお話伺つてすつかり安心しちまひまして、夕飯まで遊ばせて戴いたんでせう。帰つたのが十時頃でしたわ。内ぢやお昼過ぎに出たつきりなもんですからどうしたんだらうと云つて心配してゐましたつてさ。私の顔を見るとどこへ行つてゐたんだよつて、姐さんが申しますの。これこれだと話をすると、それはまあよかつたと皆が喜んでくれましてね。それでもあたしばかりそんな呑気に御馳走になつたりなんどしていいけど、内ぢや大そう心配して居たんですから、姐さんの前へきまりがわるくなりましてね。」
「それで裁判所へ行つたの。」
「ええ、行きました。午前九時つてますから、一生懸命に朝起して出かけましたの。十一時頃まで、あの廊下の椅子の処で待たされて散々になつちまひました。判事さんの前へ行きますと、お前は誰だつて、大そう威張つてねえ。」私達はもう舞台の廊下に来て居つた。単物《ひとへもの》からセルへうつる時候で、生憎《あひにく》其日は蒸《むし》熱いので、長い幕合を涼みがてら廊下に出て居る人が多かつた。
「それから………と云ふ者を知つてるかとおつしやいますから、へいと申しました。どうしておあしをやつたかとおたづねになりますから、ふだん懇意にしてますからと申しますと、懇意にしてるからつておあしをやるやつがあるかとどなられましたの、もうあたし震《ふる》ひ上《あが》つちまひました。」
 そこへおもちやもやつて来た。
「姐さん夢中ね。」
「ああ。あの裁判のお話さ。」
「さう。」
「大きくなつたなあ。」私はまたかうくりかへした。「いくつかね。」
「十八になりました。」
「もう四五年もたつたからなあ。」
「この頃はちよつともいらしつて下さらないんですもの。ねえ姐さん。」
「新橋の方がそりや上等ですもの。」
「そんな訳ぢやないんだ。すつかり納まつてしまつたんだよ。さうさう。此間やまと新聞かで品川芸者の評判記が出てゐたが、おもちやさんが一流の流行つ児だと書いてあつたんだ、蔭乍ら喜んで居たよ。」
「どうも御親切様。」
「しかし女はかうも変るものかね。それにくらべるとお糸さんはいつもおんなじだが、一体いくつかね。」
「もうおばあさんですよ。」
「さうでもあるまい。けれど初めて遇つたときだつて、まさか十九や二十ぢやなかつたんだからなあ。やつぱりひとりかね。」
「誰が相手にしてくれますものか。」
 舞台の用意が出来たと見えて、木がはいつた。やがて幕あきのしやぎりの鳴物《なりもの》が耳に近く響いて来た。

 私達の連中もいろいろ変つた。松田君は二年程掛かつて拵《こしら》へ上げた保険会社と銀行とで、社長やら頭取やらの位置を占めて、青年実業家として方方を切廻して居る。草香君は其会社の支配人となつた。宮川君は何か失敗して姑《しばら》く音信もしない。一番気の毒なのは種田君で長いこと患《わづら》つた。そして脊髄の疾患で立ち居が不自由になつた。小半里の路さへ歩くにも容易でない。ふだん半病人の生活をつづけて居る。去年の一月の中頃であつた。種田君と私の家族とが穴守《あなもり》へ遊びに行つて一泊して夕方帰途についた。蒲田で乗換へた品川行の電車が生憎《あひにく》混雑して居つて、腰をかける席もなかつた。種田君の病体では釣革をたよりに立つて居るのが苦しさうであつた。中途でしやがんだりしてやつと品川へついた。電車を下りたら目まひがしてあるけぬと云ひ出した。どこにか休んで行かうと云ふことになつたが、どこへ行くと云つても外に知つた家もないから、「桔梗」へでも行かうと云ひ出した。細君達や子供は先へ帰ることにして私が残つた。
 二人は「桔梗」の入口の戸をあけて中《うち》へはいつた。六畳の上り端《はな》で欅《けやき》の胴切《どうぎり》の火鉢のまはりに、お糸[#「糸」はママ]さんとおなかさんとがぼんやりして居た。今私達があけた戸口から外の寒い空気が、いいあんばいに暖《ぬく》まつてゐた二人の女の肌《はだへ》をさした。なげしの上の神棚の灯がちよつとまたたいた。
「今晩は。」
「あらつ。」二人の女は等しく目をあげた。
「いやお久しう。」種田君は例の調子で、例の笑ひ方をした。
「お糸さんは。」
「居ますのよ。まあお上《あが》りなさいまし、」と私達の方へ云つてお仲さんは二階の方へ、
「お糸姐さん、お糸姐さん、」と呼んだ。そそくさと二階を下りて来たお糸さんは、
「どうなすつたの、」と云つて種田君の外套に手をかけて半ば脱《ぬ》ぎかけたのを受取つて、
「全くねえ、あんまりなんですもの、」と訳の分らぬことを云ひつつ,お仲さんの袖をひいて、
「お二階はなんだしね。」
「一寸休ませて貰へばいいんだ、奥でいいんだよ、」と種田君は中腰になつて火鉢に手をかざした。
「今日は穴守の帰りさ。種田さんが気分がわるいと云ふんで、奥さんの承認を経てここへ来たんだ。あたたかくしてやつてくれ給へ。」
 二人はやがて奥へ通つた。座蒲団が薄いからつて二つも重ねてくれたり、火鉢は二つで足りないつて三つに火をかんかんおこしてくれたりして、お糸さんは一人でせかせか働いて居た。少し落付くと種田君も気分が直つた。お腹《なか》がすいたので何かの誂《あつらへ》もした。お糸さんは湯婆《ゆたんぽ》をこさへて寝巻と一つにもつて来て、
「まあこれでも抱いて、お寝巻をおひきなさいまし、本統にびつくりしましたわ。それでも忘れて下さらなかつたんですわねえ。」と云つて気をかへて、
「種田さんは長いことおわるくいらつしつたんですつて、お話は承つてをりましたんですけど、お見舞も致しませんですみません。ちつとはおよろしいんですか。まだおわるさうね。お困りですことねえ。」
「こんないい人が、こんな病気になるつてのは実に天道様《てんたうさま》もひどいよ。」
「全くねえ。どこがお悪くいらつしやいますんです。」
「ここの辺だ、」と種田君は腰のまはりを撫でて、
「腰がふらふらするのでね。」
「まあ、どうしてそんな御病気に。」
「道楽の報《むく》いさ。」種田君は笑ひ乍ら云つた。
「貴方にそんなことがあるもんですか。ねえ栗村さん。それはさうと少しはおあつたかくなりましたの。」
「大きに。お蔭で、結構、結構。すつかりいい気分になつた。おもちやさんでも呼んで貰はうか。」
「およろしいんですか。そんなことをなすつても。」
「おもちやが来たつて、口説《くど》くと云ふ訳ぢやないぢやないか。」
「あら、さうでしたわねえ、」とお糸さんは、立つて膳を運ぶやら、寂しいから景気づけにと銚子を一本もつてくるやらして居た。間もなくおもちやが来た。
「いよう。」種田君はこの大人《おとな》びた女の姿を好奇の目で迎へた。
「いやよそんなに、あたしの顔ばつかり見ていらしつて。」
「別嬪《べつぴん》になつたねえ。」間延《まのび》の口調がいかにも誇張のない驚きを
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